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My Story

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乳がんだけでなく、パーキンソン病になってしまった
浦 久子(三重県在住 1942年生まれ)

2018年07月16日更新

デイサービスに行って作った「鯉のぼりの壁掛け」をもって。デイサービスに行って作った「鯉のぼりの壁掛け」をもって。・1986年 10月 右の乳房全摘 ハルステットによる。44才
・1987年 あけぼの会へ入会
   あけぼの会との出会いは、入院していた時丁度「ワットさんの笑って長生き」が新聞に連載されていて、
   同じ病室の人から教えて頂きました。
・1989年~1996年 あけぼの会三重支部支部長
  (1989年~1993年まで愛知支部と一緒に活動で、1994年三重支部として独立)
・2015年 「パーキンソン症候群」と診断される。73才

44歳になった時、「乳がん」を言い渡された
子供の頃から病気らしい病気をしたことがなかった。そして44歳、「4」を二つ合わせて「しあわせの年」になるだろうと、嘯いていたのに乳がんと聞いて「どうして私が・・・?」受け入れるのに必死だった。

乳がんで「乳房全摘」の手術をして、手術というものを初めて受けた。
これが生涯最大の出来事になるだろう、とそのときは思った。以来、乳がんが私の年表になった。

術後3年目、肝臓に影が見つかったが検査の結果、ただの血管腫とわかり、ホッとした。
健康に対しては、食べ物や生活習慣に自分なりの注意をはらっていると思っていた。
その結果、元気に40年余りを生きてきたと思っていた。
でも自分の体でありながら自分の意志の働かないところで私は病気になっていた。
たった2センチのしこりが私の体を支配している、悔しい思いがあった。
でも、病気になるならないは私のせいではない、自分の力の及ばない何か大きな力が働いているのだ、そう思った時、ストンと力が抜けた。

乳がんの術後、途中細かいトラブルはあったものの、10年、20年そして30年になろうとしていた。
20年以上になる姑との葛藤も終わり自分だけの生活が出来るだろう。
 趣味も旅行も頑張ろう。キャスター付きのバックとリュックでもっと動けるだろう。
「腰が痛い、」「足が冷える」そんなことは整形外科の病院で解決してくれるだろう・・・・
年取って歩けなくなったら近所の友人たちと麻雀をしようと話し合っていた。
牌を持てるだけの力があればいい。牌をそろえるには電動の麻雀卓があるはずだ、なんて。
それなのに、そんな楽観的目論みとは別に友人たちは私の変化に気づいていた。
中には認知症を疑う人もいてメンタルクリニック、内科など回って診てもらった。

結果、なんと全く想定外の「パーキンソン症候群」と判明した。
こうなったらもう腹を括るしかない。しんどいけど、マ、何とかなるだろう。
しかし、戸惑うことばかりであった。パーキンソンの場合、その症状が数値に表わされることはない。
先生の判断は私の自己申告のみである。私は正確に自分の状態を説明できているのだろうか。
薬の副作用が強く出るということは薬が合わないということなのだろうか。
それは、私の説明が的確ではなかったからなのだろうかと考え込んだりした。

一方、今まで家事というものを一切しなかった夫は仕方なく、せざるを得ない羽目になった。台所へ複数の人間が入るのをあんなに嫌っていた私も、自分一人ではどうしようもなくなってしまった。
「洗濯物を干す」ことことさえもできなくなって、どのくらいになるだろう。
この病気の恐ろしいところは、自分自身も気づかないくらいのとても遅いスピードで進行し、確実に悪くなっていくところである。

夫とは毎朝顔を合わせる度に「どうだった?」「OKよ、今日はバナナ1本よ」「それは良かった」「今日も快調よ!」のような会話を交わしている。
私の現在の介護保険の認定は「要支援1」、週1回のディサービスに行きながら、今のこの体力で出来ることを楽しみたいと思っています。
今は周囲の厚意に甘えまくって、パーキンソン患者になり切っています。
もともと几帳面ではない私は病気がいつ発症したかわからないのです。
毎日の変わりない生活の延長に「パーキンソン病」があったように思います。毎日ほとんど変わりない生活です。ビールだって美味しいし・・・。

*私のディサービスの日,木曜日は手仕事のできる人がたくさんいます。
ディサービスではそんな人が指導してくれて、楽しい手芸品を作っています。
私はほとんどしゃべっているだけです。昨年男の孫が生まれました。
「あなたはお孫ちゃんに送ってあげたいのでしょう。」
実は私の作り方ではまずいと思った先生(?)がほとんど作ってくれました。
 
洋服は「琉球絣」のリメイク、ブローチ、両方とも友人からのおさがりです。