22日、5時まで寝た。今日も晴天、初夏日和。今回はいつもの時差戦争はまだ始まっていない。ただ午後3時過ぎると突如起きていられなくて、ひと寝する。日本の夜中。そして夕方7時、そのまま寝続けたい誘惑に打ち勝って、起きて、ディナーを食べて、こっちの夜中前、導眠剤一服のんで寝る。このパターンだと現地時間に即応していることになって、ありえないことなので、気味悪い。朝7時半、意を決して、リージェンツ・パークまで行って来た。公園の中が小高い丘になっていて、ちょっとした山登り、いい運動になる。

 今夜9時半の飛行機で娘とリラがバンコックへ発つ。私が日本にいるときから強く勧めて、実現した。だってこの私を有効活用しない手はないでしょ。介護班、一人加われば一人は抜けられるはず。母娘は昨年2月以来、1年2ヶ月ぶりで自分たちのマンションへの帰還。リラは自分の部屋なんかを覚えているだろうか。娘は8年も住んでいたタイに、もう戻って住みたいとは思わないという。あの国は、遊びに行くのとリタイア後に住むならよいが、哲学的人生の追求と子育てには向かない、というのが私の実感。

 大体年がら年中暑すぎて深く思考したり悩んだりは似合わない国。だからタイ人はおおらかでいつもニコニコ、怒らない。娘よ、世界は無限大に広いのだから今度はまた別の国で住めばいい。私ももし30代に戻れたら、なんとなくギリシャとかトルコとかミステリアスな国に住んでみたい。でもイタリーでもスペインでもいい、なんて、欲張りな空想に暫し浸っている。人間、一生の長さは限られているのに、なぜ一ところに居を構えるのだろう。札幌とか京都とか九州とかに住んで、東京に発信する文筆業家にも憧れる。

 息子が車で空港へ送って行くのだが、日曜はヘルパーが来ないので、私が病人と二人だけ取り残されることになる。自信がなくて、もじもじしていたら、ベッドへ寝かせていってくれるという。自分の夫の面倒も見れないなんて、恥ずかしい。子供たちはますます手馴れてきて、水を胃ろうに大きな注射器で入れる手つきも、スプーンで物を食べさせる(たらたら垂れ流す)のも、ホイストで上げ下げするのも、急所とお尻に軟膏を塗るのも、トイレの後始末も、手足のマッサージも、歯磨きも、着替えも、リズミカルにこなしている。

 夕べ、ニックのパーティから病人はシンデレラタイムに帰ってきた。ずいぶん楽しんで来た様子。よかった。私の留守中、またまたスイスへ連れて行って安楽死させてくれ、を言い出しては娘を困らせていたそうなので、パーティを楽しめる間は生きていなければね、と言ってやった。きまり悪そうに微笑んでいる。人一人、そんなに簡単に永眠させられるものか。もしさせたとすれば、スイスからの帰途、生き残りし者の心を想像してもみよ。

 しかし、実のところ、彼の顔には以前はあった生気が失せて、めったに笑わなくなった。力のない、すねた表情をして、顔色も黄色っぽい。痛み止め薬のおかげで夜は通しで寝てくれるが、その分、日中でもウトウト状態。もうどうでもいい、といった投げやりの日々、こんな姿は見るも哀れで、安楽死もまじめに視野に入れる時が来たのかと思ってしまう。人は生きる希望も目的もなければ、呼吸ができても、死んだようなものなのかも知れない。