10月28日、ほぼ3ヶ月ぶりでロンドンに戻りました。飛行機は強力な向かい風にあおられて、なんと丸々1時間余分に飛んで、13時間30分かけてようやくヒースロー空港に着陸。お迎えのミニキャブ(白タク)には気の毒しました。しかし、運転手も心得ていて、最近はパソコンで到着時間をチェックしてから動くという。白タク代40ポンド、かつてなら軽く1万を出たところが、今や円高!成田で換金1ポンド158円40銭。よって、約8000円で済んだわけ。これが大きい。チップでも少しくれてやろうか、という気になる。

 そしてその夜、8時頃からなんと雪が舞い降り始めたのです。地面に落ちてすぐ消えるやわな雪ではなく、天から地面に大きな糸でつながっているような重い雪、たちまち積もって、裏庭の芝生がみるみる白くなった。信じられない10月の雪はなんとこの国で74年ぶりだったそう。私を歓迎してくれたのはうれしいが、寒くて身震いしてしまう。日本で半袖のTシャツを着ていたというのにあわててカーディガンを羽織る。しかし、雪はいつも幻想的ですね。今ここに立っていることも幻想、人生のすべてが幻想に思えてくる。

 病人はすっかりやつれて、喜怒哀楽も見せず、終日車椅子に座って、首を垂れたまま、殆ど居眠り状態で日がな過ごしている。時間、月日、季節が過ぎ行く感覚などない。両腕の筋肉が抜け落ちて、細く弱々しい限り。生きている意味があるのか。娘と今ならスイスへ連れて行って、安楽死させても悔いはないかも、と意見の一致があるが、かといって、実現できるわけがない。世界中からそのスイスの安楽死センターみたいなところめがけて行くらしい。眠ったまま何十年も生かされている人を思えば、夫はまだ目は開いている。

 夫が昔、元気で「ただいま」と家に帰ってきたころを思い出す。いつも私には笑顔を見せていた。あんな日々は当たり前だと思って、大事にしなかった、バチが当たったのだ。彼は10月15日に72になった。そして、今日11月1日は私たち家族がパリに集合して、パリ観光のはずが、彼の異常が発覚する日になった記念の日、2005年だった。翌12月に病名が正式に告げられ、半年の命と宣告されて、我が家のパニックライフが始まった。それが何と今も生きて、丸3年。人間の余命など最大の医学を持ってしても読めないのだ。

 子供たちが今も変わらず親身に介護している。よく飽きないものだ。息子は毎日仕事に出かけて、帰ると食事をして、病人をベッドに寝せる大仕事をする。最初にコモートに座らせて、トイレがあるか確認して、それからベッドへ寝かせて、体を拭いて、全身ストレッチ運動。しないとすぐに硬直してしまうのがこの病気の一つの特徴。自分もベッドに座って話しかけながらやっている。私は時差のせいにして寝てばかり。

 ヘルパーも一人が替わっただけで、エリザベス、ブーミン、ヘレンの3人はずっと続いていて私の帰還を喜んでくれた。この3人は共通して、病人を普通の人間として扱ってくれている。返事が来ないことを知っていて、ごく自然に話しかけてくれる。これがなかなか出来ないことなので本当にありがたい。ナイジェリア人のブーミンは独身でクリスマスにも国に帰らないというので、ここでディナーを一緒にするか聞いてみよう。