水曜日3時、雨混じりの冷たい空の下、ストレッチャーに寝たまま、白い布、ではなく白いシーツをかけられて病人は音がしない救急車で帰還した。シーツは顔にはかかっていなかった。待機していたヘルパーと私は飛んで出て行って、入り口のドアの上下のつっかえを外してドアを両方に全開して、ウェルカムホーム。息子は仕事に出ていたので、娘が病院から一人で付き添って、大役を果たした。私はといえば、朝から受け入れ準備。ベッドを作り、あちこち掃除したり、娘のランチを用意したり、結構てんてこ舞いしていた。

 夜6時、へレンが来たら、目をかすかに開けた。彼女はこの機とばかりに何か話しかけている。「家に帰ったのよ、わかっている?」とか、何気なく普通に会話をしているトーンがうれしい。明日は早速、ナース・リズとナース頭のアン・マリーと地域のナース(主にジョクソーのケアのため訪問してくれる)と栄養士とが今後の具体的介護指導のために来てくれるという。ヘルパーのエリザベスはすぐには来られなかったが、来週月曜から毎日来てくれることになった。かくして、この病人はどこへ行ってもみなが放っておかない。

 病室でリズに「この人ほどラッキーな病人はいないんじゃない。緊急でもいい病院に入れてもらえて、あなたのようなやさしいナースがいつも気にかけてくれて、ドクターもスタッフもみんな親切にしてくれて」と感謝の辞を述べると「それはあなたたちのようないいファミリーが一生懸命に看病しているから、みんなこの部屋に来たいのよ。とんでもないファミリーもいるんだから」と笑って答えた。人は生きてきたように死ぬ、というから、夫はいい生き方をしてきたのだろう。少なくても子供たちにはいい父親だったのがわかる。

 しかし、イスラエルの攻撃でガザ地区の市民が800人も2週間のうちに死んでいる。同じ人一人の命だと思うと、何だか気の毒で、家の病人よりあの人たちを助けてあげて欲しいと願ってしまう。が、そうはいかないのが世界事情。早い話、日本のレストランで余って捨てるご馳走を食べ物が足りないアフリカに回せばいいと誰もが思っても簡単に出来ないのがいい例だ。けが人が3000人もいる。手当てをするにも多すぎて病院もアップアップだろう。一人のやけどボーイがヘリで運ばれて助かることもある。すべてが運命なのだ。

 1月17日は阪神大震災記念日、翌18日は私の誕生日、69歳、古稀の前年祝をしたい。そう、日本に帰ろう。夫を見送る予定の今回の渡英だったが、予定はやはり未定、またALS患者を一から出直すことになった。ヘルパーの手配も出来たので、私がとどまっても大勢に大差なし。先日の日曜、気分転換に夕食によんでくれたカレンが「当人だって、もうこれ以上は生きていたくないと思っているでしょうに」と嘆いた。どうなんだろう。もうダメかと何度も諦めかけたのに、素直に脱帽したい。

 だが、言ってしまおう、私はもう彼が死ぬまでこっちには戻らない。一、仕事が溜まっている、二、体が持たない、三、悔いがないだけやった。そんな気配を察して、息子が「マミー、今週末に帰らなくてよかった」なんて言う。これ以上、引き止めないでくれ。胃の左の内臓がどんより痛くて、気になっている。だから今帰らないと、一人で帰れなくなる。