ストラーザは連日快晴だった。そして私の頭も晴れ晴れ冴えていた。これほど実りのある国際会議は今までなかった、と何故か、心から満足していた。それが帰るときになって、満足の理由にはたと気がついた。時差がなかったからだったのよ。ロンドンで2週間しっかり調整して臨んだ私は日本から直行していた富樫さんに較べれば、時差の点で、はるかに優位だったのだ。彼女は日本の夜中に差し掛かる午後4時ころ、決まって居眠りを始める。私はピンピン冴えまくって英語でもなんでもよくわかって楽しいくらい。

 今まで何度ヨーロッパの会議に参加したか、数知れない。いつも、会議の前日現地入り、その夜から必ず睡眠薬を飲んで寝る。すると日中、目は起きているんだけど体は寝ている、重くて沈んだ気分のまま、2,3日過ぎて、帰国、このパターンだった。会議の内容を理解したという成就感がなかったので、昨年2月、ロンドンでのアストラゼネカ会議の最中に、こんな状態では無意味なので来年はもう来ない、と決心したくらいだった。思えば、日本人の私は、昼夜さかさまの時差と、言語と、老齢の三重のハンディを背負っていたのです。

 それでも侍精神で出撃する私は立派よね。そして今回遂に、ヨーロッパ勢と同条件で参加、それだもの、手ごたえを感じるわけよ。(ここでお断りですが、オーストラリアからだと日本からより時差がある?リンさんですが、彼女はいつも冴えている。若いからでしょ) とにかく参加23ヶ国、総数52名。東洋人は日本からの3名(富樫さん、ノバルティスの高橋さん、私)のみ、台湾からは前触れだけでゼロ、名簿にあったノバルティス北京の中国人を探しても結局いなかった。アジアの同胞に会うのを楽しみにしていたので、落胆した。

 会議のクライマックスは初日最後のセッションで「全員起立」。まず乳がん体験者でない人から座らせて、次いで術後5年以内、10年、15年、20年と座らせて、残ったのが3人、左から23年、27年と来て、最後がこの私で「29年」といった時、満場歓声があがった。こんな場面でタカコジャパンをアッピールできて気分爽快、来た甲斐があった。来年もチャンスを作ってくれれば「30年」で聞こえがいいので、なんとしても来たい。

 他にも四部屋に分かれたワークショップでは「クリニカルトライアル」と「企業とのコラボレーション」の二つを選んだ。自国の事情を発表させられるので、緊張したが、順番が廻ってくるまでにパパっと紙に書いてみて、それを述べる。あれでよかったのかな、と心配していたら、夕食の席で「あなたの発表は建設的で非常によかった」と書記係さんがほめてくれた。「そうよね、言語ではない、中身なのよ」とすぐ素直に解釈して喜ぶ私。

 たった今、ロンドンに電話を入れたら、夫が弱ってきていているので、ベッドから車椅子へ移したりする時、これからはホイストを使うようになるという。残っていた右腕の力が失せてきた。帰国したばかりなのに、これだと1ヶ月もこっちにいられない。来月10日頃には向こうへ戻ったほうがよさそう。小康状態のように見えたのに、今、目に見えて元気がなくなっているともいう。最初に診たドクターは「6ヶ月の命」と診断したのだったが、数えればこの5月のこと。やはり余談は許さないのか、にわかに落ち着かなくなった。