連日の暑さに参ってしまって、すっかり書く意欲をなくし、またまたの遅延。恥じ入っております。というのは、ていのいい言い訳で、ただ単に書けないだけ。書かなければ、という脅迫感と、書きたくないという怠け癖が、私の頭のてっぺんで戦っています。人間は何も思いつかなければ何もしなくてもいいのに、思いついたばかりに、それをしないで怠ると自分を責めたり罪悪感に苛まれたりする、そんなやっかいな生きものでございます。
でも生きているということは、何かを考えて行動して成果をあげること。すると、自分でやると決めたことをしないのは、生きることを放棄したに等しい。よって、つべこべ言わずに書きなさい。
こんなこと言うと誤解を招きますが、私はいつも食べ物屋さんか八百屋さんか、あんな商売に憧れます。お店で肉体的に働いて、家に帰って食事して、テレビ見て、お風呂に入ってぐっすり寝て、また次の日は機嫌よく仕事に出かけていく。
生活に区切りがある。仕事をいつも引きずっていない。私のような立場にある人はいつも仕事とつながれていて、どこへ行っても何をしていても頭から離れない。同じような職種の人はきっと同じような思いをしているでしょう。食堂なんかで「へーい、いらっしゃい、まいどー」とか声張り上げている人を見るととても羨ましい。何といっても<発散型>で<健康的>。
それに引き換え、私は不健康的です。でも文句を言ってはいけません、人は自分に与えられた職務を享受しなければ。そう思いませんか。ちなみに、この「享受」の意味は広辞苑によると「精神的にすぐれたものや、物質上の利益などを受け入れ、味わい、楽しむこと」だそうです。なかなか含蓄のある言葉ですが、私が職務を享受するということは「精神的にすぐれたものを受け入れ楽しむこと」となる。素晴らしいことではないでしょうか。
数日前、あけぼの会は全国の会員さんに「秋の大会お知らせレター」を発送しました。昨日一日に二人の死亡が電話で届きました。会員の家族が郵便物が届くと、あわてて知らせてくるのです。たまたま私が電話を取った二人は42歳と50歳でまだ若い。そして二人とも術後10年目。術後10年も経ったら、解放してくれればいいのに、この病気はどこまでもしつこくて、汚い野郎です。
家族から電話が入ると、応答しながら「会員名簿」を開いて、その人を探し出し、「幾つだったのですね、術後何年目だったのですね、まだお若いから子供さんも幼いんでしょ、ご主人のあなたもお若いんでしょ」とか、いたわりの会話をするように心がけている。そうすることで、故人をともに偲びたいのと、取り残された人の悲しさも少しは癒されるのではないかと思うからです。
「ハイ、わかりました、手続しておきます、ご愁傷さまでした」と事務的に済ませることもできる。しかし、それはしない。何かの縁であけぼの会に入会した人、そんな人との別れはやはりつらい。ありたけの真心を込めて、お見送りするのです。