約3ヶ月ぶりで大英帝国に舞い戻りました。4月19日、季節は春、なのにヒースロー空港は夏の蒸し風呂、着ていた赤い半コートを脱いで、その下のカーディガンまで脱いで、ようやく息ができた。12時間前に飛び立った成田はその日に限ってだが、10度を切る冬の寒さだったというのに。地球は狂っている。それでも春の新緑だけが、東京から成田に向かう道すがら、ヒースローから街中に向かう道すがら、両国、共にやさしく美しい。「やわらかに柳青める北上の岸辺目に見ゆ泣けとごとくに」そう、私は心で泣いていました。
思えば、愛犬シンチャンが死んでちょうど1年、命日4月15日、さらに思えば、昨年は4月20日に日本を発っていた。昨年と今年、たった一日違いでイギリスへ来た偶然を、なんてことはないのだが、意味付けようとしているが何も見出せないでいる。こうなると来年もこの日辺りにイギリスへ来るか。キティとジローの猫2匹はまだいるので、しばしの別れの挨拶をしてきた。シンチャンがいたときは、兄貴分のシンチャンに猫たちをよろしくねと頼んだものだが、その兄貴がいなくなってもう1年とはまさに光陰矢のごとし。
さて、100日ぶりに対面した病人はますますやつれて正真正銘の病人の様相。でもこれは月日をおいて見るときに毎回感じる印象なので驚くに値しない。ただ唯一残存していた右手の指がほとんど動かせなくなって、太ももにABCを書く力が失せている。娘と息子だけにしかわからない指文字でかろうじて意思伝達をしている。指も人差し指1本ではなく4本の指を一緒に動かすしかできないので、私なんかには全く判読できない。アルファベット文字盤ももらってあるが、面倒なのでまだそれを使う段階に移行していない。
それでもまだ呼吸に問題なく、口から流動食を食べさせてもらっている。口に入れた半分はたらたら垂れ流している感じだが、それでも味がわかるので食べさせる方は作り甲斐がある。寝室に備え付けのホイストを着けてもらった。天井から上下できて、レールで左右動かせる。これでベッドからの出し入れ時には移動ホイストをいちいち動かさなくてもよし。トイレに行くときだけ、移動ホイストをリビングに持ってきて、そこで吊り上げてコモートに座らせてトイレに連れて行き、終わるとまた連れ戻して、車椅子に座らせる。
これを今は女二人の力でもできるようになった。以前は一旦立たせて図体を両脇から支えている間に椅子の入れ替えをしたので、3人の手が要った。昼間に一回はベッドで休むようになった。これは介護班に少しの解放があることなので助かる。あれほど抵抗した日中のベッドインを自ら希望しているのだから、やはり終日車椅子に座り続けるのが耐えがたくなっているのだろう。思えば、昨年3月以来だから、車椅子生活も1年以上になった。
21日、ニックの70歳誕生日パーティに招かれている。私はリラとお留守番、娘と息子が保護者で同伴するが、夕べ、寝る前になって、パーティで会う面々は大体彼の友達でもあるので、みなが元気で自分だけ惨めな姿を呈すのはいやだ、と言い出した。「あら、ニックのパーティがダディのパーティになるんではないの?どんなときも注目のマトになるのは快感よ、当惑するのはニックのほうでしょ、行って楽しんできて」と発破をかけてやった。