「父親のためとはいえ、こんな泥沼にいつまでも浸かっていたら、あんたたちの行く先どうなるの」と子供たちに繰り返しぼやいて、ぼやいている本人は適当に沼を出たり入ったりしている。夫の介護は妻の役、これは世界の常識、宇宙の原則。それを全面、子供たちに任せて、人が聞いたら、無責任ねえ、と言うだろう。昨夜、病人の指の爪を爪切りで切っていた娘が「ごめーん」と悲鳴を上げた。爪と一緒に肉もチョイ切ったらしく、少し血が出ている。急いでバンドエイドを貼って、少しくらい痛くてもガマンしなさい、と私。

 毎晩寝る前に歯間ブラシで歯間の掃除、仕上げに電気歯磨きで磨いて、ベッドに入れた後、急所にビニールカップをかぶせて尿パックにつながるビニール管とつなぐ。それから30分手足のマッサージ。このマッサージは一夜も怠ることなく、1年半近く続けている。サボると次の日に指が動かなくなってしまう。鬼監督の息子の留守中、何もかもサボりたいのにサボれない。フリーザーに入っている不気味な中国産の苦い茶、熱いお湯で根気よく掻き混ぜて溶かして、固める粉を入れて、飲ますというよりスプーンで食べさせる。

 これも七面倒くさいので休みたいのだが、息子が帰って残りを数えると減ってないことがばれる。数だけ捨てればいいのだが、高価で惜しくて捨てられない、ああ大いなる葛藤。私は妻だけど、夫の爪切りや歯磨きなんかいやだわ。よその奥さんはどうなんだろう。娘は私の数倍辛抱強い(とヘルパーたちも感心している)。だから病人は娘に同じことを頼んでは困らせている。「スイスへ連れて行って安楽死させてくれ」。「いい加減にしなさい、お経唱えてるんじゃないのよ、たまには息子に言えばいいのに、叱られるから怖いんでしょ」

 息子は安楽死など問題外だと聞く耳を持たない。この難問に正しい答えはないので、誰にも相談できない。「最終的には本人の意思」とか言われても、まだ息をしている人を永眠させたあとの家族はずっとある種の負い目を背負って生きていくことになる。先日訪問してくれたドクターにもこの話を持ち出すと「それはまだでしょう」と即時却下された。会話がままならないので踏み込んだ議論ができず、喋れる人のほうの意見が通ることになる。公平とは言えない。実際、病人が私だったら安楽死をねがうだろうか。ねがうでしょうね。

 病人はパソコンを自発的には開かなくなって長くなる。それで娘が時折開いて、横にべったり座って、代わりに返信を打っている。それもいちいち確認を取りながらの作業だから気が遠くなる。私なら、誰も見てないときに適当に返事を書いて、お終いにするのに。のろのろと動かない手先で太ももの上になぞるABCも、子供たちは逆からでも読んでいるが、私は読もうともしないで、すぐ助けを求める。「英語わからなーい」観察するに、彼らは病人の手足と口になって、一体になっている。それも少しも厭わずに。

 私たち家族の一人が突然難病になって、本来、不幸なはずなのに不幸感は最初から漂っていなかった。運命の受容か、成り行き任せか。全世界のALS患者のファミリーが上手に生きているのだから、私たちもその後に付いて行けばよいのだ。日本でALSの夫を抱える妻に会って話をすればいいのに、帰ると突然、会長になってそれどころではなくなる。

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