こちらに来て今日で丁度丸1週間、時差で狂ったまま、時間ばかりが過ぎていって、私の人生、これでいいのだろうか。いつも何かに挑戦していたい私の異常気性。「変わりない」と言ったが、病人は実は生きた屍みたいになってしまっている。表情が死んでいる。かわいそうだが、これでは生きていてもしょうがない、こんな人間一人の命のために私も子供たちも人生をここまで犠牲にしなければいけないのだろうか、と考えてしまう。息子は「どこか旅行に連れて行こう」というが、ホイストなどの仕掛けがなければ泊りがけは不可能。
頭の中で何を考えているのだろうか。 以前のように安楽死を口にしなくなったが、死にたいと願う力もなくなってしまった様子。 ただそこに浮遊しているだけの存在。 最近とみに泣く。 昔を思い起こさせるものを見ると泣く傾向なので、昔を懐かしむ力はあるみたい。 夕べは 「ミカド」 のオープニング曲が流れると同時に泣き始めて、その前の夜は 「越路吹雪」 のレコードを聴いて泣いていた。 思えば、私たちは初めての正式デートで日比谷の帝国劇場へ彼女のリサイタルを見に行った。 1964年のこと、封印された二人だけの過去。
私はカラオケ苦手だが、その気になると「サントワマミー」や「ラストダンス」を選曲する。岸洋子の「夜明けの歌」も。低音だからなんとか歌えるが上手ではない。そのくせ下手くそな人が歌うのを聴かされるのは我慢できないので、原則、避けることにしている。10月の韓国国際会議のレセプションでも例外なくカラオケが始まって、地元のあるドクターはしょっぱなからマイクを握って離さない。英語で「慕情」を歌い上げたかと思うと、日本の歌謡曲もサラサラと歌う。聞けば9ヶ国語で歌えるのが自慢で大の人気者らしい。
2年後2009年に会場を大邸(てぐ)に移して第二回乳がん国際会議開催、今回の最終日に発表された。ドクターの学会に患者会のリーダーを諸外国から招待してくれることなど前代未聞の快挙、関係者の勇断に敬意を表する。日本のドクター陣も見習いたまえ。問題は私の2回目があるかどうか。自分で言うのもなんだが、私のプレゼンは会場ひと飲みにして大好評だったので、私だけ呼んでもらえるかも知れない。そうしたら、韓国の歌を一曲マスターして行くか。あの国には日本がとうになくしてしまった無鉄砲な馬力がある。
私のパソコンに何の進展もない。送信できないだけで意気消沈、無力感に負けているだらしない私。こんな機械はテームズ川に投げ込んで、また新しいのを買えば済むならそうしたいくらいだが、そんな問題ではないらしい。札幌の久保さんから親切なアドバイスが届いたのだが、解決には至らない。受信は出来ると言っているのに、どうせ返事はもらえないと踏んだ日本の愛読者さまからのメールがピタッと途絶えてしまった。私を島流しにしないでくれ。人に愛を送るとき見返りを期待しないこと。だからせっせと書いて送って。
久しぶりに英国鉄道でSevenoaksまで行って来た。車窓から眺める晩秋風景は千金の値、命の洗濯になった。ミヨコさん、糖尿病の疑いありと言われたそうで、当惑していた。おいしいものを無制限に食べるのが好きな人だから、こたえている。でも病人は一家に一人、どこの家にも平等に発生してもらわなければ我が家だけなんて、いやよ。郊外の比較的安いスーパーで食料品をしこたま買って担いで帰ってきた。千葉の行商おばさんを思い出す。