言うも書くも恐ろしいのだが、2008年10月、あけぼの会は生誕30年を迎える。
もうすぐ1月18日、私は68歳。
人生のほぼ半分、会とともに生きたことになる。
苦節30年、と言いたいところだが、人間、一つ事に打ち込んで邁進できたことはひとえに神に感謝すべきで、苦情を述べ立ててはバチが当たるというものだろう。
私の場合、37でがんになって、もし再発でもしていれば、40そこそこの命で終っていたことも考えられる。
志半ばで力尽きた可能性は大いにある。だから「志成就」で迎えた30周年に私はひれ伏して感謝する。

 芸術家は音楽や絵、お芝居、映画、書物などで目に見える足跡功績を残す。
が、私の30年には集大成的なものがない。
あるとすればなんだろう。
4000を越す会員の数だろうか。
はたと気付いて、辺りを見回しても、目に見えるものはそれしかない。
だから、これから10月までの間に「乳がん30年史―あけぼの会のあゆみを通して」を書き出していってみたい。
何もなかった野原に一粒のたねを撒いて、大事に育ててきた一本の木の年輪をほぐしていってみたい、と思いついた。
私でしか出来ないこの仕事を「集大成」としよう。

 この長い道のり、実にいろんなことがあった。
まっすぐ(真正直に)歩いていて、壁にぶつかるたび、私の即断で、右か左か、どっちも行かないか、決めてきた。
それでもこの「独断滑走」は10年を過ぎた頃から、先生がたやマスコミ人に相談して決めるようになって、そこに大いなる人間的進歩があった。
社会に認知されて、応援してもらっていることを実感してからは、私も気張るのをやめた。
その分、人間が丸くなって行った、か?

 思い出すにエピソードは山とある。
たとえば、あの近藤誠という医者 (覚えています?慶応病院放射線科) は本能的に大嫌いで、雑誌対談やテレビ共演など当時あちこちから頼まれたが、断固断って、結局今に至っても一度も対面していない。
だって、彼は当時、飛ぶ鳥落とす勢いで、マスコミの寵児。
世論は彼の説に肩持って、私なんかが出て行っても勝てる見込みはどこにもなかった。
私は勝ち目のない勝負は最初からしない。
そしてあの旋風が去って10年?経った今、どう、患者魂は残って、彼は過去の人になってしまった。

 今回、パソコンさえあれば、ところ替わっても仕事なんてどこでもできる、と高をくくってイギリス入りした。
しかし、真剣な仕事はやはりあのあけぼの会事務局のごちゃごちゃした混沌の中でしかできないことがわかった。
だから、今帰国が待ち遠しい。
始めなければならない仕事が目の前にぶら下がっているのにできないもどかしさ。
多分、3ヶ月は戻らないから、と言って、昨日8ロール入りペーパータオルを買い足してきた。
在庫2パック、16ロールある。
これは病人が滝のように流すよだれを吸収してくれる必需品。

 ヘルパーのジェニースが私を慰めてくれる。
「あなたのハズバンドはとても強い人、長い間、こんな状況に耐えている。
裸にされて体を拭いてもらったり、終日車椅子に座ってじっとしていて、体も動かせない、物も言えない、昔の元気な頃を思い出せば悲しくなるだろうに、それを見せない。
一日中泣いている患者もいるのよ」
 そうだ、彼が心の奥にしまってしまった悲しみ苦しみを思えば、何だってできる。
いや、しなければならないのだ。