今年は30周年記念大会を全国4会場で開催するほか、私の郷里、佐渡で講演会を企画した。30年間に仕残していたふるさと貢献に急遽気付いたからだった。幸いノバルティス ファーマ社が共催してくれ、新潟がんセンター(元)副院長の佐野宗明先生の講演で印象付けることができた。打ち合わせのため4月に佐渡へ渡り、中学時代の同級生4人と佐渡市唯一の会員、小池さんが集まって夕食会、段取りを決めた。結局最初から最後まで現地の同級生主体で6月14日の講演会は220を越す人を集め、熱気の中、大盛会に終わった。

 第一回記念大会は5月30日in札幌、現地の先生が7人も壇上に勢揃い、豪華だったのだが入りが半分で、盛り上がりが今一だった。が、もう気にしていない。もともと436人入りの大会場は北海道支部には無謀だったのだ。特に最近は製薬会社主導の乳がん講演会が入場無料であちこちで開催されている中、私たちの催しは参加費1000円、これに抵抗感があったかもしれない。また、30周年を前面に押し出した催しは会員ではない人に違和感を与えただろう。前夜、札幌入りして、つぼ八でほっけの塩焼きを食べたので私は満足。

 そして第二回、舞台は京都、7月5日。こちらは定員360の会場に補助椅子を追加する勢い、熱気でむんむん、やはり人が多めに集まって始めて燃える。中身も良かった。関西の大御所、小山博記、園尾博司、高塚雄一、の三先生。30年を振り返って語るエピソードに人柄が滲み出ていて、誰もが感動した。関西3県、兵庫、奈良、滋賀の3支部長がそれぞれ思い出話と各県での活動を簡潔に紹介した。中でも兵庫の橋本さん(前支部長)はあけぼの会がスタートした30年前からの会員だったので、まさに1978年の話をした。

 「会から届いた30年分の印刷物を紐解いていたら、発足当時の会長さんの手書きのお知らせが出てきたんです」。それを聞くや、私の体から涙がどっとあふれ出て、両目を右手で覆って大泣きしてしまった。長かった年月の思いが胸に抱えきれないほどの重さで私を締め付けて痛かった。翌79年の夏には帰省中の佐渡の家で手書きしたレターを父が3里先の両津までコピーを取りに行ってくれたのも思い出していた。何もない時代だった。橋本さんのこの一言で私が泣き、会場がもらい泣きして、京都はみなが胸熱くしたのだった。

 日本からのメールで福岡34度、岐阜の多治見が37度を越えたとか。岐阜といえば、京都の翌日は岐阜大学記念館での講演会へ移動した。連日の舞台はもう体力的に無理なのだが、岐阜支部長が県下で熱狂的に活動展開しているので、一度は行かねばと考えていたのと、日本での仕事はこれで暫くお休みと思って引き受けた。新築の記念ホールは天井も高く広々として気持ちよかった。200人は入ったか、地元の専門医が4人で壇上を飾り、岐阜でも乳がん診療をきっちりしている自信を見せた。岐阜羽島駅から車で50分は遠かった。

 こちらは日本でいう梅雨冷えの冷やっこさ、寒がり屋の私はこっそりヒーターをつけて叱られている。金、土、日と3日間昼も寝通して、まだ一歩も外へ出ていない。病人が口の周りを真っ赤にして下唇を腫らしている。明日はナースの週一訪問日だそうなので、私が相談することになっている。子供たちは二人とも終日バイトで家を空けるようになった。