12月20日土曜日。死んだように眠る、という表現があるが、病人は家に帰って以来、優に30時間ぶっ通しで、まさに死んだように寝ている。まぶたが糊で貼り付けたようにくっついて離れない。人間は眠り続けた末に死ぬこともあるのか。午後になって、ダディダディ、と呼ぶとまぶたをぴくぴく震わせて微かに薄目を開けようとする。意識はある。みなで思わず拍手をした。イロウからの食事を入れる。しかし、体は痩せ細って、足は角材みたいに骨が突出して、肋骨も2本浮き出ている。腕も私の手のひらで握れる細さになった。

 街はクリスマス。プレゼントショッピングの人々が急ぎ足で行き交う。孫に大きなお人形ハウスを買ってきた。包装紙を3枚使って、ようやく包んだ。夫の唯一の身内は2才年下の弟だが、彼は重病人を見るのは怖くてイヤと言って、年に一回くらいしか会いに来ない。ましてや死にかけている身内にはとても会えない。その代わりにこの週末、孫をオックスフォードの別荘に三晩も連れて行ってくれた。孫は余り抵抗なく、どこへでも喜んで行くから感心している。母親も娘を人に預けて、心配もしない。それも感心している。

 夜9時半、病人の呼吸が一時、止まったかに見えた。娘と私は思わず目を合わせて、ケータイで息子に通報、息子は飛んで帰ってきた。土曜の夜だから、近くまで来てくれた友人とバーでちょっと息抜きをしていたのだった。「サンディが来るまで待って」と私と娘が交互に叫ぶ。息子が帰る前に息を引き取ってはまずい。パニックだった。酸素をあげると、正常呼吸を取り戻した。あわてたのが恥ずかしい。でもそれから12時まで、3人でベッドの回りに椅子を持ってきて座り、病人の手を両方から握って、足をさすり、話しかけた。

 力なく、目をうっすらと開けて3人を替わりばんこに見たりする。じっと見入られると怖くなるが、目で何かを言いたげにしている。しかし、文字盤を見て文字を選ぶ気力はもうない。「大丈夫よ、みんなここにいるからね、頑張ったものね、長い間・・・・」と言って「もう休んで(永眠しても)いいのよ」と続けたいのだが、息子は全くあきらめていない。「明日天気がよかったら、外へ行こう。新鮮な空気を吸えば、また元気になるから」とか何とか本気で言うので、私は、書いて字の通り、閉口してしまう。

 一段落してから、息子に、あんたが帰るまで待ってと頼んでいたのよ、と告白すると、ホスピスにいた8日間ずっと「マミーが日本から来るから、待って」と言っていたんだよ、と告白。ホスピス入院中に何度ももうダメか、の瞬間があったらしい。娘の頼み通りに飛んできてよかった。「早く来てくれて本当によかった、どうしていいかわからなかった、限界だった」と安堵を見せた。私もこの年になると、誰かが指示して手配してくれれば別だが、決断も面倒なら行動も面倒だ。だから今回、自力で敏捷に行動した私はまず偉かった。

 永訣の時が刻一刻と迫ってきている。残り時間の間に、何か荘厳な家族儀式をして「ダディ、ありがとう、私たちはあなたと共に生きて幸せだった、あなたはよき夫、よき父親だった、心から誇りに思う」とか伝えなければいけないのに、午後には息子とクリスマスターキーを買いにスーパーへ行ってきた。明日、私が正式な‘見送る言葉’を書こう。