ホスピスへの途中、小さな庭に濃い紫のクロッカスが三つ、つぼみのまま春の訪れを予告している。力強く誇らしげに。昨日今日私があれほど嫌ったイギリスの冬空から終日冷たい雨が音を立てて降っていたが、不思議にそれほど抵抗感なく、連日の訪問介護に励んでいる。人間、使命感があると雨・風・寒さなど気にならなくなる。それでも、冷たい雨に無防備に打たれているクロッカスのけなげさには涙が出そうになる。

 一昨日、日本に電話を入れ、近所の渡辺さんに、シンチャンたちの様子を聞いてみた。渡辺さんはほとんど毎夜、猫缶を持って訪問してくれている。みんな生きていますよ、という報告でほっとしたが、そのあとに聞いたストーリーで、私は今ホームシック。シンチャンが散歩のおじさんをぐいぐい引っ張るので、どこへ行くのか付いていってみると、なんと、あけぼの会のオフイスへ行ったそうだ。そこへ行けば私がいると思ったのだろう。忠犬シンチャン、もうしばらく待っていて。お土産にイギリスのハムを買って帰るから。

 私のマンションと事務局は歩いて5分の距離、週末や早朝の散歩の途中に一緒に立ち寄ることが多いので、犬でもしっかり覚えていたとみえる。10年近く飼っている雑種のデブ犬、私の恋人。ここに連れてきたいが、おそらくこのフラットはペット禁だろう。外で、散歩の犬を見ると、レンタルしたいと思ってしまう。猫たちは10年以上いるので、留守中に病気か何かで死んだら清掃局へ電話して引取ってもらうよう頼んである。私は犬猫の永代供養など信じない。生きているうちに精一杯かわいがってやればいいのだ。

 夫の友人が次々と見舞いに来てくれて、数が多いので、ビジターズブックが要るね、と話している。中でもニックは家が近いので、毎夕、顔を出してくれる。そして、3日前から、夫のために朗読を始めた。ミルトンの「失楽園」。夫が昔、ケンブリッジで読んだのだそうだ。私は彼をドクター・ミルトンと呼ぶことにした。そういえば、夫は昨年プルーストの「失われた時を求めて」を再度読破したといっていた。「あら、そう」と軽く流していたが、もっと褒め称えてあげればよかった。私は夢にも読めると思っていない一大長編。でも人は、何を読んでも何を聞いてもそれを全部頭脳に詰め込んだまま、死んでしまう。

 ホスピスのナースたちは揃って明るい。ハーイ、アンドリュー、とファーストネームで患者を呼んで、友達のように語りかけ、背中に手を当て、笑って、この厄介な患者を少しもいやがらない。私は家族代表で、手を合わせて拝んでいる。そういえば、この国ではお辞儀をしない。代わりに握手をする。私は握手をしながらついお辞儀をしている。日本の政治家が外国に行ったときみたいで、卑屈っぽくていやなのだが、つい同じ格好をしている。

 ホスピスにはビジター用のリビングルームがあって、大きな籐のソファセットに柔らかい薄オレンジ色のクッションカバーが付いている。そこでお湯を沸かしてコーヒーを作ったりテレビを見たりできる。せめてものご奉仕と思って、植木の水遣りと流しのコップを洗ってかたづける役をして、先日ナースに感謝された。これくらいで感謝されては申し訳ない。夫の排便を片付けてもらっているだけでバチが当たってもおかしくないというのに。

 夫は唯一動く右手を自在に使って、毎日誰かに絵葉書を書き送っている。その姿は一見、どこも悪いようには見えない。ミルトンを読み終えるまで、生きているつもりのように見える。しかし、足のむくみとどす黒い色が日に日に目立ってきていて、気がかりだ。