私の虫のいい英会話短期習得の試みはやはり失敗に終わり、面接試験に当たった小錦関みたいにでかいアメリカ人は「英語が流暢」が条件だったでしょう、と私を非難した。この一言で縮み上がってしまった私はただでも何を聞かれているのかわからないのに、ますますわからない。冷や汗が首筋を流れ落ちる。だがここで「そうでしたわね」と簡単に身を退くわけにはいかない。「ええ、わかっています、でもプリーズ・ギブ・ミー・ア・チャンス(私をここで見捨てないで)」とねじり込んだ。ここですね、私の偉大なところは。

 そのねじ込みのおかげで、晴れて、空飛ぶスチュワーデスになったのですから快挙。人生どんな時も簡単にあきらめてはだめ、押したり退いたりしなければ。私もユニフォームを着ればそれらしく見えて格好よかった。あれこそ馬子にも衣装ね。松屋の食堂で彼がどこの国から来たのか尋ねた時、当ててみなさいというので、アメリカ、フランス、ドイツ、イタリアの4つの国を言って、5番目にようやくイギリスが出た位、当時の私にはイギリスは感覚的に遠い国だった。その英国人に電話して、どこで最初に会ったか、思い出せない。

 あの頃、新宿歌舞伎町のビルの中にタンゴ喫茶があって、売り出す前の菅原洋一さんが歌っていた。そこでタンゴを聴きながら、何故か中華を食べた。そういう穴場を私より先に知っていた彼は探究心旺盛。日本語レッスンも来日早々始めていて、会った時は既に少し話せたのをあとで知って、私の英語のほうがレベルが低かったので恥ずかしかった。外人なのに、トヨタのよれよれ中古車に乗っていて、マフラーのせいか、もの凄い音を立てて走るので100メートル先から近づいてくるのがわかった。会社が提供する高級マンションは辞退して、下町の6畳間一間位のアパートに住んでいたのも彼らしかった。

 彼はJ.W.トンプソンという世界的に有名な広告会社の東京駐在員として来日していたが、2年間の任期が終ると本国へ帰ってしまう。付き合って1年くらい経った時、日本にいる間だけの遊び相手はいやなんだけど、恐る恐る切り出してみた。私も28になって、当時ではケッコン適齢期を過ぎていたし、ケッコンを前提としたお付き合いならいいけどという打算もあって、思い切って聞いてみたのだった。すると、「そうだ、無責任だった」とあやまって、あっさり別れることになった。しまった、また逃げられた、私はいつもこうだからケッコンできないのよ、女の方から迫ってはダメなのだ、さんざん懲りていたはずなのに。

 失恋して、悲しくて、タンゴ喫茶で菅原洋一を聞いて涙してると、突然彼が一人で入って来て、食事を共にしても、外に出れば別れて、元に戻るのは、彼の帰国が本決まりになってからだった。あの時はまだ羽田空港だったが、見送りに行くといっても何故か断わられて、結局彼の会社の人や友達には一度も会わないままだった。やはり、私は日陰の女だったのだ。でもいいか、佐渡島の田舎の出だもの、大英帝国の人とは身分が違うんだし、帰国すればガールフレンドが待っていて結婚も決まっているのかもしれない。潔く身を退くのが女の美学でしょ。

 ところがところが40年後の今、彼が病気になって始めて、あの当時おおやけに付き合っていた英国大使館勤めの女性がほかにいたことが判明したのだった。