鼻かぜをこじらせてしまった。いじくりすぎた鼻と鼻の沿線上のコメカミが痛くなって、娘に買ってきてもらった薬を4時間置きにのんだら、痛みは少し去ったのだが、鼻づまり感は抜けなくて、知能が明晰に働かない。鼻腔こそ気圧の薄いジェットの中では悪化するので、なんとしても出発前までに治したい。今回はスーパー・テスコと家を往復しただけで、どこにも行かなかった。イギリスまで来ていてこれでは人生の無駄なのだろうか。

 夫はすっかり本物の病人になってしまった。日がな一日、車椅子に座ったまま、うつむき加減で世を儚んでいる。かつてはよく笑いもしたのに、笑顔は消えてしまい、しかめ面か痴呆顔しかしなくなった。私がいたずらして、目の前で手をパパっと動かしても表情を変えてくれない。本人の希望通り安楽死の方向へ持っていくべきなのだろうか。でも何年も眠ったきりの病人を生かしているケースもある。まだ思考力はあるし、口から物は食べられるし、人工呼吸器を着けなくても呼吸は正常なのだから、諦めるのはまだ早かろう。

 息子が私の気晴らしにと、強引に映画に誘ってくれた。私は彼に付き合ってあげて仕方なく付いて行ったのだが、とんでもない映画で中途で逃げ帰ってしまった。日本題は何だろうか、ジャック・ニコルソン、デカプリオ、マット・デーモン出演のマーティン・スコセッシ監督作品。監督も有名、錚々たる俳優人をこれだけ揃えたなら、と期待して行ったのに、超バイオレントシーンの連続、私の繊細な神経は悲鳴を上げてしまった。殴ったり撃ち殺したりは序の口、血まみれの手首をビニール袋から出して指輪を抜き取ったりする。

 「心臓の弱い人は見るな」の警告を最初に出すべき。あんな映画に大金をつぎ込むハリウッドの映画会社の気が知れない。ぶつくさ言いながら一人、家まで歩いて帰る夜道で、なぜか嬉しくなって顔がほころぶ。「あんたはいなさい、私は帰る」とさっと席を立って出てきた、あの一瞬の決断と行動がよかった。せっかくの息子の好意に対しては悪かったが、かといって、見たくないものを最後まで我慢して見たとしたら、それは私ではない。人間、どんなときも自分の哲学を尊重して行動するべき。それが生きるということである。

 ナースのリズが来て全員揃って、夫がどう死ねるか、話し合った。リズはこの国で自分の意思で死にたいなら、食べ物も水も絶って死に至るのだけが合法なんだという。当然ながら「そんな時間が掛かる方法はいやだ」と夫は嘆く。私たちだって、夫が飢えで死ぬのを見守るなんて、とてもできない。だからダディはオランダとかへ行きたがっているのよ、と娘が言う。オランダでがんのまつごに安楽死したモーレンカープふゆこさんのことを思い出す。「毎日新聞」歌壇の常連投稿者で、私も彼女の短歌のファンの一人だった。

 明日はまた空港へ向かう。今日は娘の注文でカレーの作り置きをすることになっている。他にも必需品を買い置きしておかなければ。鼻がしつこくぐずついて、いじくりをやめないので奥の奥が痛い。鼻に指を突っ込んでいるさまを想像すれば、威厳など失せ、百年の恋も冷めるだろうが、今は副鼻腔炎が私の人生を支配している。日本に帰ったら耳鼻科へ直行、といいながら帰ると面倒くさくなって病院へ行かない私。(実は歯も痛い)