こんな質問を受けた歌人の伊藤一彦という人は「自分の経験から」と断って、このように答えています。

「 『自分が今日限りの命だと思い歌を作ってみてください』
本気にそう思えば、どれほど眼前の一杯の水が貴く、草木の緑が眩しく、家族や友人のひとりひとりが愛しいか。
『死はそこに抗いもなく立つゆえに生きている一日一日(ひとひひとひ)はいづみ』
と亡き上田三四二氏は歌った。結腸癌を病んでいることを知った44歳の時の作である。その後、上田氏は病が癒えたが、62歳で再び病み昨年(1989年)世を去るまでの間、「一日一日」を「いづみ」として沸き出るものを愛しんだ 」

「 死が抗いなく立っているのは、しかし、病む者ばかりではない。この世に生まれて限られた時間を生きるすべてがそうだ。そのことを深く心清めて思うとき、歌ができないわけがないではないか。一杯の目の前の水が、いや一滴の水が全世界として輝きはじめないか。
 『青梅を籠下げて待つおさなごよ わが亡きのちに汝(なれ)は死すべき』 」

「 歌ができない、と人が言うとき、普通はどんな歌もできないという意味でなく、自分の納得し満足し得る歌ができないという意味で言っている。その点では日常の自分の作品に倦き足りない気持ちを言っているのであり、工夫や努力を必要とする、歌ができない状態こそ、じつは自分の作品が大きく飛躍していく鍵をにぎっている。
そもそも歌はできないものだ、そう覚悟しておいた方がいいとさえ言える。日常の会話や散文では言えない複雑で奥深い内容、それもしばしば作者自身にもはっきりとつかめていない或る内容を定型の力を恃(たの)んで表そうとするのだから、苦心するのは当たり前である 」

これは1990年10月13日付「毎日新聞」の「私の短歌作法―有限の存在」という題のコラムからの引用です。何故か捨てがたく、私の机の中にボロボロになりながらねむっていた。この「歌ができないときはどうしたらいいでしょうか」を「どう生きたらいいかわからないときはどうしたらいいでしょうか」に変えてみても、答えが出ているようですね。「命が今日限りだと思って生きてみてください」

 「複雑で奥深い悩み、それもがん患者自身にもはっきりとつかめていない・・・」
この部分もぴったりでしょう。ましてや「しっかり生きることができない状態こそ、じつは自分の生命が大きく飛躍していく鍵をにぎっている」と変えれば、一時的に生きる目的を失ったがん患者になんと好意的な贈り物でしょう。私は、感極まって泣きたいほど。

 「そもそも、よく生きるなんて、誰にもわからないものなのだ、そう覚悟しておいた方がいいとさえ言える」というふうにも変えられる。そして、その答えも隠されていて、ただ、ひたすら「一日一日」を「いづみ」として生きる、ことなのです。