paper全国のみなさん、本日は、よくおいでくださいました。ありがとう!

 

45年を迎えました。会場には、お若くて、まだ生まれていなかった、という人もおられるのでは? 会は長い間、がんばって来ましたね。そもそも、どうして、乳がんの患者会を作ろうと思ったのか? それは当然私が46年前に乳がんの手術を受けたのがきっかけで、その時37歳、二人の子供たちが7歳と4歳でした。夫の仕事で5年間住んでいたニューヨークから帰国したばかりで、アメリカで毎年、乳がん子宮がんの検診を受けていたので、日本でも受けなければと思い、でも乳がんは触っていただけだ、自分で胸を触って、しこりに行き当たった、というラッキーな偶然でした。

 

?」なんて叱られたという時代。入院期間は随分長くて、一月、病院で遊んでいました。問題は退院後、みなさん、「がんは退院後から始まる」。当時はがん=死、おまけにリンパに2個の転移があったので、ごく初期ではなく第2期で5年生存率は75%、とか雑誌で見て、私は5年以内に再発して死ぬ、と思い始めて、それからが大変でした。30代で死にたくない、子どもたちも幼い、そうだ、誰か同じ手術をして、同じ思いの人と話がしたい、そう思ったのでした。

 

17人が集まって「あけぼの会」の名前を決めたのが197810月、当時は「がん」という言葉は絶対タブーで、誰もが避けていたんですが、私は最初からはっきり「乳がん患者の会」とうたっていた。何故なら、がんでなければ、死の不安はないし、会は必要ない。日本女性はエライ、自分の病気ががんであること自覚していた。だから、新聞の呼びかけに答えて、すぐに会員が400になり、初めて東京で集まりをした時、全国から200人が。

 

―――こんな風に書いていると時間がいくらあっても足りないので、はしょります。要するに私が患者会が必要と思ったのは、めいめいが一人で不安を抱えている、だからみなでそれをわかり合い、分かち合おうというもので、これが当たった。同じ体験をした人でなければ分からない不安。また、がんになって胸を失くしたと言っても、手術後も手術前と同じ人間、だから「再び、誇り高く美しく」生きましょう、という呼びかけをした。がんなんかに突然襲われて、本当は口惜しい、でも口惜しさを見せないで、以前よりしっかり生きて見せよう、という女の心意気、これをみなさんに伝えた。皆の思いの代弁だった。

 

みなさん、9/24、私はこういう話を10分間する予定です、10分では足りない!

 

1000円)は当日、会場でお払いください。お待ちしています!

 

akebonotokyo2020@gmail.com

153-0043 目黒区東山32225401 あけぼの会

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