宇宙からロケットが地上に生還する速さではなかったらしいが、無事イングランドに着陸した。一夜明けてから電話が入って、娘、本人、息子の順に報告してくれた。空港には娘だけでなく、夫の弟(生存する唯一の肉親)の奥さんと甥が出てくれたそう。人間が多いほうが歓迎ムードが高まるのでありがたかった。しかし、向こうの空港で知らせてあったはずの車椅子がなかなか用意されなくて、ずいぶん待たされたという。そこまで来ていて動けなかったのはかわいそうだった。

 出発の日の朝、9時半(現地7時半)、仕事に出る前に電話を入れた。まだ寝ていた息子はウーンとかハーンとか唸っていて機嫌が悪い。「9時半に出るなら、2時間前だから起きてお茶でも飲んで支度して」と最後の司令を出す。「起きてお茶飲んで」は私がいつも家族を起こすときのセリフだったことを思い出す。機嫌損ねたか、と気にしながら、また運は天に任せて、事務局へ出勤。時計が気になる。今、家を出ていれば大丈夫、今チェックイン済ませたなら問題ない、という具合に時間を追っている。

 午後、息子からメールが入った。「全部手続き済ませて、今ダディとラウンジにいる。サンドイッチがあって飲み物があって、ワイアレスインターネットシステムがあって、旅行はこれに限る!」今回は2人ともビジネスクラスで飛んだので、VIPルームへ入れてもらえたことを初体験の息子は喜んでいる。苦あれば楽あり。喜びが少しでもあってよかった。「朝はモーニングコールありがとう。丁度あの時間に起きるように目覚ましかけてあったのに止めてしまって、また寝入ったところだった、助かった」と感謝してくれている。

 やはり賢い母の勘はいつも当たる。でもここは素直に感謝の気持ちを伝える息子のほうが数倍偉い。娘がバンコックで働き始めて9年目になるが、行った当初、毎朝、日本から電話をかけて起こす係をした。2,3回鳴らすだけで話はしないのでお金はかからない。オフイスの同僚に笑われたそうだが、今でも飛行機に乗るようなときは人間目覚まし時計をやっている。私は一度でいいから朝寝坊をしてみたいのだが、何時に寝ても朝はいつも通りに目が醒めて起きてしまう。その代わり、夜は全くダメ。子供のとき、晩ご飯を食べながら、茶碗を持ったまま眠りだした、というエピソードの持ち主。早寝早起きなのよね。

 夫がますます話せなくなっている。弱弱しい声で囁く感じだが、何より話をしたがらなくなって、すぐに誰かに代わってしまう。面倒なのか、苦痛なのか。今のうちに話をしておかないと、あとはこっちが喋って向こうはうなずくだけとか、文字盤で意思表示とかになるらしい。わかっていても、会話のし貯めはできない。今までも、2人きりでいるときは特に、今のうちになんでも言っておかないと死んでしまうと焦るのだが、結局、ぎこちない沈黙の中にいることが多かった。

 確かめてはいないが、そんな思いはお互い同じに違いない。だからさっきまでは今度会ったらすぐ、何でも喋りなさい、と強引に喋らすつもりだったが「いいのよ、無理しなくても、わかっているから」とモナリザの 微笑で言ってあげることにした。ただ気になるのは、18日にタイに帰ってしまう娘は今度は数ヶ月は父親と離れることになるので、生の声の聞き納めになるのではないか。しかし、今それを私が言うわけにはいかない。