ようやく完全元気になったと思いきや、ホスピスの入り口に差し掛かると足が重くなってきた。本当はそれ以前に家を出るときから気が重い。池尻大橋から三茶まではある距離を歩いて通うがそれはちょうどいい運動だと思っているので、さして苦にならない。昨日は午後1時から夜8時までホスピス内にいたが、しまいに体が宙に浮いたような、吐き気がするような、不思議な気分になってきて、交替する息子を待ちきれずに切り上げて外へ出てしまった。無意識に体があの空間にいることを拒絶し始めている。

 病人は便器の付いた‘コモート’と呼ばれるイスに座って踏ん張っている最中だったが、いたたまれなくて「また明日来るからね」と出ようとした。すると、ナースコールを指差すので、用は済んだのかとベルを押すと、そうではない、と激しく否定する。ナースコールのベルを自分の手に持たせてくれ、ということだったのに私が押してしまったのだった。「ナースがベルを手が届くところにおいてくれなかった」といちいち紙に書いて私に弁解するので、「自分でも頼まなければだめでしょ」と軽く叱責する。と、泣き出してしまう。

 泣きたいのはこっちのほうなのに。しかし、こうして部屋の真ん中に一人イスに座って用足しをしなければならない夫の憐れさを目の前にすれば、すべてが許されて当然と反省する。人生の終焉にこんな姿をさらすことになろうとは想像もしなかったことだろう。間もなく自宅で家族が全面的に面倒見ることになる。子供たちは嫌がらないのはわかっているが、肝心の私の神経が耐えられそうにない。彼の帰宅後すぐに、ケアする人を昼間だけでも頼むべきだと考えるようになった。

 夫の帰還は早くて来週の水曜日、今日は土曜なので、あと数日後。とにかく帰宅後に病人が安全に住めることを確認してから始めて釈放する徹底振りは見上げたものだ。電動ベッドも車椅子もシャワー椅子も、それに昨日はじめてみた半円回転盤みたいな機械、つかまって立っている人を360度回転できる。これがあればベッドから車椅子へ、車椅子からコモートへ二人の手があればできる。それも病人を持ち上げることなく、女手で操作できるからありがたい。これを一式無料で貸してもらえるなんて福祉国家イギリスの面目躍如。

 キャロリンは先週土曜から1週間の予定でシシリー島へ行っている。義弟のデビッドは妻のフイリッパとバーベードスへ2週間クルーズの旅に出かけた。ニックは毎週末ゴルフをする。この国の人たちは堂々と休暇をとるために働いている。これも一生、ろくに休暇も取らず、残業当たり前のように働いて(これって私のこと)仕事に埋もれて過ごすも一生。日本人は一つのことをまっしぐらに突き詰めることはうまいが、あれこれバランスよく同時進行できない。まあ、休暇を取るのもそれなりのエネルギーが要るので、働きすぎの日本人にはそのエネルギーが残っていなくて、休暇はイコール寝ることになるのかも知れない。

 私たち一家は家長が近いうちに死んでしまうというので、全員時間を止めて生きることになった。しかし、地球は一人の人間の都合などお構いなしに回転を続け、日は昇り日は沈む。人々は愛を語り、子を産み、休暇を取り、昨日と同じ生活を当然のごとくに続けている。時間を止めた世界で、私たちが疎外感を感じないで正気で生きられるのか、自信がない。でももうどこまでも走ると決めて発車してしまった車の中で、もがいてみても始まらないのだ。