イギリスの太陽は沈みそうでなかなか沈まないことに気が付いた。こんな特徴は中学の理科の時間に習ったのかもしれないが、すっかり忘れていた。今夕方7時なのにまだ陽の光が辺りを彷徨っている。そんな残り陽の中を息子の運転で散歩に出かけた夫は、なんと散髪をして帰ってきた。さっぱりして若返って「ウヮーオ!」みなに冷やかされて喜んでいる。口からひっきりなしによだれが垂れるので、日本から持ってきた温泉タオルを口に当てて、うつむいてくくっと笑う。声は出ない。笑えば実に赤子のようにかわいい。

 温泉タオルは去年、佐渡に帰ったとき、母がためていた‘かんぽの宿’を8枚全部もらってきたのが重宝している。夫はかろうじてスプーンを手に持って食べるが、スプーンを口まで持っていくのがようやく。口に入れると、今度は思うように飲み込めないのか、口内でぐじゅぐじゅさせていて、それがちょこっと垂れ流れるので、首から垂らしたタオルでぬぐう。日に5,6枚は取り替えて、手でごしごし洗うのだが、食べ物かすは簡単に落ちない。漂白してもまだ落ちなくて、完全に白くしたい私の野望が打ち負かされる。

 歯磨きも座ったまま、電気歯ブラシで、プラスティックカップを手に自分でするが、口をすすいでペッと吐き出せば、それは歯磨き粉混じりの唾液なのだから、ぞっとする混合液。これに日に数回、おしっこボトルの後始末。大のほうはお尻を拭いてあげて、出したものをトイレに流して、容器を洗う。寝たきり人間を抱えた世界中の介護人がしていることだと頭でわかっても、この世で清純なものしか見たくない私は息が詰まって卒倒しそう。これを今では全部、息子と娘がいとわずにしてくれている。

 今にして思えば、彼らは仕事をやめたりせずに続けて、自分の生活は保持して、病人のシモの世話などはお金を払ってプロに任せればよかったのかも知れない。傍で見ている誰もがそう思っているのかも知れない。しかし、この場合、傍がどう思うかは問題ではないのだ。私もそう諦めて、黙って見守ることに決めている。が、今一番の心配は、二人が夫を持ち上げるたび、徐々に腰を痛めて、将来の生活に支障が出るような結果にならないか。誰かが「盲腸の次はヘルニアよ」と警告してくれた。腸が飛び出したらどうしよう。

 車椅子を押すのだって簡単そうに見えて結構難業。重いんだもの。歩道が全部なだらかとは限らないので、体重+車椅子=90キロ?を時には持ち上げることになる。乗せてもらうほうが気を使って、2回に1回は遠慮するかと思いきや、いつでも外へ行きたがる。ここのポーチに陽がさせば、段差を、娘が改築現場から拾ってきた幅広の板を4枚使って覆って、外へ出してもらって、日向ぼっこしたりランチを食べたりする。見上げれば青い空、目の前には芝生の庭が広がり、新緑の背の高い木々が微風に揺れ、目隠しの濃いグリーンの塀の上をリスが飛び跳ねて、車椅子姿を真ん中に入れるとそれは一枚の絵の世界。

 夫と二人別々のパソコンに向かっている。間に息子と娘のもあって、都合4人が一列に並ぶこともあるが、今は二人きりの静寂の中、久しぶりに「冬ソナ」コンサート。子供たちがいると「またこれ?」とバカにされるので、いないのを見計らって聞いている。彼は本当にこの甘い韓国メロディーが気に入っているようだ。この人が、いつか、もうじき、遠からぬ日、早晩、この世から消えていなくなる。この動かしがたい事実。

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