帰国して以来、雨の日が多いのに気がついた。そうしたら沖縄はとっくに梅雨で、つい2,3日前には九州も梅雨入り宣言。梅雨ね、そんな季節の移り変わりも今年は忘れかけている。帰るとすぐ、今度はいつまた向こうへ行けばいいか、迷いながら切符の手配をパソコンで始める。ロンドンまで直行便でなくてもよければ、韓国経由の韓国航空とアシアナ航空の2社がダントツで安いがすぐに売り切れている。ちなみにこの「ダントツ」という言葉はあの石原知事が書いた小説の中に出てきて流行語になった、とテレビが言っていた。

 5月最後の週末、ガスストーブを片付けてしまったら朝がた雨がそぼ降って寒いので、電気ストーブを出してきて点けている。まだ時差で狂ったままだが、鼓舞して早起きして公園に行くようにしている。公園の友にも会いたいし、ラジオ体操でもしなければ全くの運動不足で体が鈍る一方、また介護に戻るにも体力強化しておかないとメンバーから外されてしまう。つくづく思うに、これからの人生、ほしいのは丈夫な体だけ、健康だけです。

 シンチャンを連れないで、一人とぼとぼ朝の散歩なんて、本格的に年寄りになったようで口惜しい。シンチャンのいない日本に帰ってくるのが切なかった。シンチャンのいない家のドアを開ける瞬間を想像しただけで悲しかった。シンチャンのいない公園への道はいつも歩いたコースは避けて、遠回りしている。犬を連れて歩いている人を見ると羨ましいが、あの犬もいつか死ぬんだわ、そしたら、飼い主は私と同じ悲しみに遭う、わかっているのかしら、なんて要らない同情をしたりしてみる。

 思えば、こんな季節のある日の午後、夫と私は始めて出会った。東京銀座4丁目、松屋デパートの前。出会いのエピソードはちょっと恥ずかしいので、余り人には語らないで来たが今、子供達のために話しておきたい気になっている。数えると今から42年も前のこと、1964年5月だった。4月だったかもしれない。東京オリンピックがあって、ビートルズが初来日した年(実は夫はロンドンから彼等と同じ飛行機で来日していた。もちろん、偶然)。私は26歳、大阪の高千穂交易という会社の経理部輸入課で輸入業務の手伝いをしていた。

 英語を生かせる仕事だったが、外国人と直接会って話をするような機会は皆無、もっぱら船荷書類の作成やコピーを取る雑用係だった。たまに外部の人から翻訳を頼まれてバイトすることもあって、機械の説明書かなにかで少しも文学的でなかったが、訳がうまいと誉められたのを思い出す。それでも翻訳家になろうとは思わなかった。人が書いたものを訳すなんてつまらない、私は自分で書く人になる。そう、今も昔も私って堂々と生意気ね。

 そんな平凡なオフィスガールに飽きていたとき、会社帰りに偶然買った「ジャパンタイムス」の求人欄の「スチュワーデス募集―27歳まで」が私の目に飛び込んできた。何を隠そう、私の青春は空飛ぶスチュワーデスになりたくてなりたくて、しかし、試験を受けるたびに落ちて、の繰り返しだったのだ。最後の挑戦、これに賭ける。履歴書を送ると同時に会社に退職届を出して、受かるとも受からないとも決まっていない東京へ、気の早い私は向かっている。さよなら、大阪。まさに背水の陣、引き返すところはどこにもない。