3日前の夜もパリのホテルの夜のように、病人がかなりぐずって、一旦ベッドに入ったのを起きて椅子に座ったり、それでも苦しそうにわめいて、相当手こずったらしい。私がいないとき、そんな状態が、あるいはもっと危険な状態が起きたらどうするか。定期的に通ってくれている緩和ケアナースのリズに電話を入れて、娘が聞いてみた。「呼吸困難とか、緊急事態が起きれば病院に連絡してすぐに入れてもらうしかない」確かにそうなのだが、早めに以前入院していたホスピスとかへ入れてもらいたいのが私の希望。子供たちは反対。

 先日、睡眠時の酸素と炭酸ガスの分量検査のために1泊入院した夫は、やつれ果てて帰ってきた。手首を固定していては寝返りを打てないので一睡も出来なかったらしい。それに器具の音がうるさい。病院だから終夜いくらでも雑音がある。翌朝息子に連れられて帰還した夫のうれしそうな顔を見ると、やはり出来るだけ最後まで自宅においてやりたい、と私でも思う。しかし現実は過酷、感情でも愛でもない。私が今度戻るまで今のまま家におられか。こうなると、子供たちが冷静に臨機応変に対処してくれることを祈るしかない。

 死に行く人にどれだけ尽くしても尽くし足りるということはない。ああすればよかった、こうすればよかった、とあとになって必ず後悔して自分を責め始める。でもそれは人間の欲であって、自分の気がすまないので悔しがっているのだ。己の限界を知り、潔く諦めて、生き残りし者は生きていかなければならない。以前「がん患者に贈る87の勇気」(草思社)の中で私は「後悔は愛情のしるし」と書いた記憶があるが、あれからもう20年近く経った。悔しがって自分を責めるのも愛情があればこそ、の自説は変わってはいない。

 夫の歯を歯間ブラシで一本ずつ丁寧にクリーンしている娘は天女、私には絶対できない。ほかに息子は私たちが‘拷問体操’と呼んでいる痛い痛い体操を1時間近く、娘は就眠前ストレッチ柔軟体操を毎日優に30分は続けている。「硬化症」の病名通り、何もしないとますます硬化してしまうので、ストレッチは欠かせない。こんなにしてもらってまで生き延びている夫は何を考えているのか、もはやコレクションに目を通す気力も失せたかに見えるのだが、誰も、まだ、何も、諦めていない。

 今日は午後4時に家を出て、夕方7時半発のANAに乗る。息子がまた見送りに空港まで付いてきてくれるという。家を離れたほうが休めるので、彼のためにも喜んでいる。メードのピペが今度来たときにはタイに帰ってしまっていないので、昨日お礼を渡して二人だけの別れをした。「また、バンコックでね」言葉はそれだけだが、お互い悲しくて声を上げて泣いてしまった。1ヶ月もタイにいて、また戻ってくれないか。ワット家の願いだが、彼女も結婚して夫持ち、首をかしげて笑うだけ。でもわからない。案外この混沌が恋しくなるかも。ピペにも数独を教えたら、なんと師匠を越えてアドバンスコースをこなしている。

 日本が私を待っている。仕事仕事、一番に取り掛かるのは1冊の本作り。なのだが、自分の書いたものを読み返すとあらばかり目に付いて少しも前に進まない。