今日1月18日67歳になって日本のみなさんからおめでとうメールが数通殺到、催促してよかった。病人は昨年10月に70歳をクリアした。私があと3年、彼の年まで持ちこたえる保証はどこにもないのに気がついてにわかに焦っている。私だけは日本女性の平均寿命を超えなければ。夫亡き後、長生きする妻が圧倒的に多いと統計に出ているらしい。女はしぶとくできている。だってあの出産の痛みに耐えるんだから思い起こせばすごいこと。

 昨日、息子がアメリカから戻って、娘が今朝スイスへ発った。今回は安楽死について訊ねてくるのが目的だが、私の日本帰国を前に一人ずつ交替でここを離れて息抜き旅行、いいことよ。早朝から外は突風荒れ狂っている。嵐でも娘の飛行機は飛び立った。しかし、着いた空港でイギリス向けのフライトは終日キャンセルというアナウンスがあって、当の本人が驚いたと言ってきた。葉っぱ一枚無い枯れ枝にどっかから飛ばされてきたスーパーのビニール袋が引っかかってびゅんびゅん強風のなせるまま、やけくそにはためいている。じっと見れば、今の私はあの袋みたい。

 5月30日~6月2日まで、ストックフォルムで乳がん患者・病院訪問ボランティア・国際集会があるので、日本から他にも有志を募って出席する予定をしている。主催者のイングリッドに去年イタリア会議の会場で必ず来るように念を押されて、勿論行きますよ、なんて軽く約束してしまった。急変が無ければ、このヨーロッパ入りまで英国に戻りたくないのだが、娘に見越されたか「5月まで来ないの」と聞かれてしまった。心に秘めて暖めているあけぼの会2007年の抱負が揺らいでしまうではないか。敵前逃亡はよくないし。

 夫の写真をアルバムに貼る段階まで来た。総じて、この人、いい人生だったのよ、ウインチェスター、ケンブリッジと秀才コース歩んで、社会人になってもまずまずの職について、好きなもの好きなだけ集めて(金にならん)、縁あって日本女性と結婚して、子供が二人もいて、孫も一人間に合って、今は悲惨極めているけど、即死よりはましと私は思うし。問題はこれからだ。結論は、生き残る家族の悔いをできるだけ少なくすること。でも、これは今までの奉仕で十分だと思うので、今は彼の面倒を見ながら、社会に戻る支度をしっかり始めるべきだと母は主張している。きっと父もそれを望んでいるに違いないから。

 「火葬にしてほしいか」確かめるのが、私の役目らしい。息子が怒るので、いないとき見計らって一度聞いてみたのだが、はっきりしなかった。私も半分逃げ腰だったみたい。葬儀も大々的にしてほしいか、密葬か、本人の意向を確かめておくのだという。彼の名誉のため隠し通してきましたが、あの人、物事さっさとはっきり決められない性質なのよ。

 帰ったら始めたい仕事の構想が次々浮かんできている。今年はまた本来の乳がん専門家に戻って、あれもこれもやる。金海の焼肉も食べる。紅華飯店の広東麺も食べる。川京のうなぎも食べる。見てろよ、全部いっぺんに食べてみせる・・・なんて品のないバカを言っている私を軽蔑して。突風に好きにされても黙って枯れ枝にしがみついているスーパーのビニール袋よ、明日になれば嵐は去って、嵐のあとの静けさが戻るのだからね。