夫は来週月曜(1月9日)にバンコック病院に入院して骨髄テストとランバー・パンクチュアーを受ける予約を入れていた。それが3日前の今日になって、やめたい、という。よかったわ、すぐキャンセルの電話入れてね、と娘に頼むとホッと胸をなでおろした。「そんな検査はいまさら必要ない」とドクターの顔に書いてあったのをさっと読み取っていたので、無駄(お金の)と決め付け、同時に、この種の検査は体にかなりの負担が掛かるはずなのに、あとで寝込むようなことはないのか、心配していた。しかし、本人が受けたいと言うのだから、で落ち着く。
この二つの検査は、他にもう一つ、ALSの症状に酷似した○○病という病気があるので、その病気かもしれない極少の可能性を追求するために受ける。○○病と出れば、抗生物質で治癒できるのだそう。「万に一つ、そっちの病気かもしれない・・・・」
しかし、英国のドクターは「意味はない、あなたの病気はALSなのです」と最終診断を下し、これらの検査を省いていた。夫は胸中にずっとくすぶっていた「万に一つの可能性」をタイのドクターにぶつけたのだった。娘も知っていた(私は知らなかったのに)
「最後のスモールチャンスに希望を繋ぎたい」と出にくい声を振り絞って訴える患者の勢いに負けて「いいですよ、あなたがそこまで望むなら、やりましょう」という運びになった。そして、目の前で入院の予約を取ってくれた。
夫がまだ完全にALSを受容していなかったことをそのとき知って、私は驚いた。簡単に認めない、彼のしぶとさは立派、さっさと殺してかかっていたのは私だけだったようだ。ALSなら仕方がない、それならそれで考えよう、とまずは受容して、エネルギーは先のために使ったほうが効率的、というのが私の生涯持論。私は気が短くて、面倒くさがりやで、余分の体力も精神的持久力もないので、あちこち迷うより諦めたほうが楽なのです。
予約してから1週間、毎夜一人で迷って考えて、「検査はノー」の結論を出してきた。「どうしてやめたの」「検査に立ち向かう自信がない・・・」あらそう、じゃあALSでいいのね。だって、ALSだからすぐに死ぬ、といわれたわけではなし、がんで3ヶ月の命といわれて本当に3ヶ月で死んでる人もいる世の中なんだから、そんな人こそ、かわいそうというものでしょ。
最近は日本でもがんの病名告知、そして余命の宣告も当然のように行われている。矛盾して聞こえると思うが、この私は長い間、後者の「余命宣告」には反対論者だった。前衛的ドクター陣からは「保守的」の烙印を押され、あの人は古くて話にならない、と揶揄されていたことも知っている。しかし、この論に正しい答えはないというのが、今でも私の結論で、とことん迷うべき個人的問題だと信じている。
夫はイギリス人でイギリスで告知を受けたので、私の出る幕がなかった。患者にうそをついて、無謀な期待を抱かせるより、事実を告げて、貴重な余命の使い方を決めさせることが、本人の意思尊重、という割り切りかただ。だが、もし日本で私が代わりに宣告を受けていたら、と考えると、すぐに伝えたかどうか。現に、この人は外人だけど、早晩死ぬ、といわれたことに反発している。死にたくないのだ。
この冷酷な事実と一人で立ち向かわなければならない孤独、無力さ、嘆き、かなしみ。
周囲がどんなにサポートしたくても彼の心の中にまで入っていって、刻々湧き出る死の恐怖の泡を押さえ込むことはできない。悲嘆にくれている彼の体の上に覆いかぶさって、私にその悲嘆を全部よこしなさい、といってみても、悲嘆は半分も移行できないのだ。孤独の肩代わりはできないのだ。