昨日2月28日にまたイギリスへ舞い戻り、計算すると日本にわずか5週間しかいなかった。先回は真冬の憂鬱天気、家の中の空気も暗く、体調も悪しく、全体的に運命をのろいまくって、もう暫くここには来ないからね、と捨て台詞を残して帰った私。少々気がとがめていたので、電話を時折入れていたら、娘が遠慮がちに「腕が痛くなった」と告白するではないの。辛抱強い彼女の悲鳴は本物、大げさではない。やはり私が行かねばならぬ、と即刻改心して、また出張してきたが、正直、いやだいやだと心中うめきながらだった。

 ふた月は日本にいると決めて帰ったつもりが娘の一声でこうだもの、身が持たない。だけど、病人は私の顔を見ればおいおいと出ない声を振り絞ってうれし泣き、これも憐れ。孫のリラはお土産のディズニーブックそっちのけで、塩鮭(焼いてきた)をつまんで、カステラもむしゃぶり食べている。娘は、私がすぐに来ると聞いた日に痛いのが治ったみたいだった、と苦笑い。人間はいつまでと期限があれば、痛みも悲しみも耐えられるのだ。それがいつまでかわからない無限となる、どこにも希望が見えなくて、痛みは倍になる。

 今日は一日馬車馬のごとく働いた。キッチンと居間の掃除、シーツ換え、洗濯機4回まわし、そして昼食夕食作り(実は同じおかず)、していないのは買い物だけ。数独が載っている新聞「インデペンデント」を朝、娘が買って来てくれたのだが、座ってそれを読む暇がない。そして、今、夜7時過ぎ、突如睡魔が襲ってきて、何も考えられない。日本は9時間足すと、29日早朝4時。機内で3時間うたた寝したのも含めて昨日の朝起床から丁度24時間経っている。丸二日も寝ないで働いて、戦争捕虜みたい。そう私は今日から時差戦争。

 肝心の病人は首がまっすぐ座らなくなって、右肩寄りにだらんと垂れて、持ち上げて直さないと終日そのまま。手で直しても手を離せば、まただらんなので、自力では首もまっすぐ支えられなくなった。首の傾き加減はホーキング博士に似てきた。博士は生き生きしているが、家はボヤンとしていて、いかにも病人ふう。肩に手を当てて顔を覗き込めば、かすかに笑ってくれる。食欲はまだあるので、早晩どうということはないだろう。日本で「ご主人いかが?」と聞かれると「まだ生きているのよ、困ってるのよ」と答えていた。

 おかしいことに夫がこんな状態でここにいる事が今では当たり前になってきた。だから、急に死んだりすれば事態は受け止めがたく、娘や息子の嘆きようを想像すると恐ろしくなる。2005年11月に病名が判り、6ヶ月の命と言われた時も勿論、驚愕だったが、考えてみると、とにかく死ぬまでみんなでできる限り面倒を見てあげよう、とそれだけ考えていた。だからあの時6ヶ月か1年後で死んでいれば、めいめい上手に諦めて永別の心準備もできていた。ところがここまで延長戦があると、ひょっとして引き分けで?と期待してしまう。

 ただ誰が見ても機能は刻々衰退している。何を思ってじっと車椅子に座しているのか、つくづくALSとは残酷な病気。涙を流して泣いてくれれば感情表現をしているので、うれしい。この人がいずれこの世から消え去ってしまう厳然たる事実。その時、私がどう子供たちを慰めればいいのか。やれること以上の事は二人でやったんだから、というしかない。

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