新居は広くてベッドルームが三つ。ロンドン市内なので、家賃は口にするのも恐ろしい額、素泊まり一泊2万円でございます。高級ホテルに宿泊しているみたいなもの。とりあえず6ヶ月契約で借りて、6か月分一挙に支払った。あのお金があれば、ホリチャンと宇宙へ行けたかもしれないのに。しかし、夫の最後になる住処、お金のことは喉まで出掛かっても言えない。こうなれば、契約期間いっぱいは生きて、元を取ってもらわねば。

 娘が探してくれたこのマンション、彼女は契約前にバンコックへ帰ってしまったが、この12日にはリラと一緒に戻って来て、再びワット家全員合流となる。2年間のロング休暇を取って、そのあとにまた復帰できる職場の恩恵を生かした。厳寒のロンドンで一人マンション探しをしていて、ここより先に見つけて、とても欲しかったところが借りられないとわかったとき、思わず泣き出したそうだ。私たち共通の友、キャロリンが教えてくれた。かわいそうなことをしてしまった。だが、代わりにここに見つけてくれて、大役を立派に果たした。これからはもう泣かなくてもいいよう、お母さんが守ってあげる。

 夫の病状は悪化の一途で少しも好転しない。全くしゃべれなくなって、ほとんどは紙に書いて伝えるが、それでもなんとか口で伝えたくて必死に試みる。わかるはずでしょ、と言いたげだが、わからないときは何回聞いてもわからない。すると激しく落胆して、この世の終わりのようなジェスチャーをする。そして、話せないのは動けないより苦痛だという。動けたほうがいいのではと私は思うが、意思伝達ができないほうが情けなく歯がゆいらしい。それと、時に咳き込むようになった。いったん咳き込むと止まらなくてハラハラする。噛んで食べるのは問題ないが、飲み物でむせる。食欲は旺盛、出されるものは何でも喜んで食べている。

 ホスピスのベッドがシングルサイズで寝返りが打てない、マットレスが柔らか過ぎて眠れない、インターネットに繋ぐシステムがない、物を置くところがない、など文句を言っているが、ほかの患者は主に末期なので、動けなくてベッドに沈んでいる。夫は病室を完全にリビングルーム化してしまって、ノートパソコン、CDプレイヤー、DVD、バッテリーチャージャーなど小さいテーブルからはみ出そうに物をおいて、床には幾重にもコードが絡み付いている。ナースがどうしてこんなに物が多いのか、と聞いたそうだ。あのくらいで驚くなんて、この家の中の彼の大量私物を見れば腰を抜かすだろう。

 三つのベッドルームの一つは既に積み上げられたダンボールとプラスティックケースで満杯、ベッドなど置くどころか、人一人通るのがようやく。高い家賃を荷物のために払うなんてばかげている。正直死んだあと、どうやって処分するのか、ぱっと捨てる私には任せてもらえない。息子は父親のものは紙一枚捨てない。私がそっと隠したものまで見つけ出して持ってきている。かくして、私は勝てないのだから、諦めるべきなのだ。

 新居での日々は、夫が死ぬまでの6ヶ月篭城ではなくて、家族全員が共に限られた命と思って生きることではないか。しかし、子供たちにこれを言っても唐突過ぎて真意はわかるまい。実は私にもこのひらめきの真意がよくわかっていない。47士の討ち死にでもないのだが、夫の人生を謳い上げるためのハーモニーのため、とでもいうべきだろうか。

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