ロンドンは紳士の国だなんて大嘘、町にはドロボーがうようよしている。新居とホスピスは徒歩で20分の距離だが、たった今、ホスピスからの帰り道に若い女の人が車の左ウインドーにビニール袋を貼っているので、どうしたの、と聞いてみた。「ウインドー壊して、何か盗もうとしたんでしょ、何も置いていないのにね、おそらく麻薬常習者がお金ほしさにやったんでしょ、これで2度目、とんでもない国になってしまったわ」と嘆いている。一つの袋では足りないようなので、先刻買い物した袋から中身を抜いて、これも使いなさい、と渡すとサンキューと喜んでいた。

 私って、こんな遠い異国まで来て、まだ人の世話を焼いている。考えるより先に寄っていって話しかけてしまう困った習性。でもこんなとき、人間は人種や言葉の違いは問題ではなくて、心なんだ、とつくづく思う。心をいつでも丸出しにして、心をぶっつけて生きている私。出し惜しみも加減もできない要領の悪さ。田舎者なのよ。

 今日3月6日月曜日、この国に来て、丸2週間、ようやく自分の足で地面を歩いている実感を得ている。声にも力がついてきた。私はまだ参っていない。郵便局に行って切手を買ってはがきを出して、局のおじさんに冗談の一つも言って、スーパーで買い物をして小銭が面倒なので、ありたけ出して好きなだけ取ってといって取ってもらって、新聞も買って、テレビでアカデミー賞のニュースも見て、ここに紛れもなく‘生活’を始めた私がいる。それに今、ケータイ電話も持っていて、自分で受信発信できるようになった。日本では持ったことがなくて、どうやって消すの、なんて怖がっていたのだ。

 ドロボーといえば、新居は一階なので、全部の窓の内側に鉄格子が入っていて、鉄格子に鍵をかけるシステム。その上、開閉できる窓にはそれぞれ上と下2ヶ所にごつい錠(鍵はついていない)が付いていて、流し台の前の窓なんか上の錠はイスに乗らないと届かない。これでは牢屋に入れられたも同じ。中から外へ逃げたいときはどうしよう、急ぎの間に合わない。しかし、郷に入れば郷に従え、厳重戸締りに慣れなければならないみたい。

 夫が最後の仕事ができるようにと借りたこのフラット(英国ではマンションとはいわない)になかなか夫が戻れないでいる。点検の結果、ホイストがどうしても必要と決まり、これが手配できるまで事実上この新居には入れない。なんという皮肉。彼のために高い家賃のところを用意したというのに、主客が住めないでいる。息子の盲腸が番狂わせだった。彼こそ、人間ホイスト、頼みの綱だったのに。

 業者を通じて、持ち上げる人を朝夕1時間くらい頼んでベッドから起こし、夜ベッドに寝かしてもらうことは可能だが(相場1時間12ポンド、約2400円)、問題はお手洗いに行きたいときだ。これが一日のいつと決まっていない。人がいる間に済ませてくれる保証がない。そのために一日拘束することになると、お金と存在がうっとうしい。どうしても終日プロを頼まなければならない日が来ることは覚悟しているのだ・・・。イスに座ったまま用が足せる車椅子もあるが、これはトイレのためなので、一日座ったままおれない。

 でも何とかしないと彼の命の灯が一日一日消えかけている。良策を思いつく名人の私だったはずなのに、思考が膠着したまま、いたずらに日にちだけが過ぎていく。車椅子に座った彼のお尻の下に便器を出し入れできないか、明日試しにやってみよう。(ダメモト)

 他人頼みではいつまで経っても連れて帰れない寒い予感がする。私の予感は当たるのだ。