夫が昨日の夕方、テーブルに座り込むや否や、声を上げて泣き出した。「かなしい、かなしい」と大きな体を震わせて、悲しみを振り絞っている。涙が流れ落ちた。夫の涙なんて、知り合って40年の間、初めてのことではないか。夫の気持ちは日本語なら「なさけない、せつない」というほうがより当たっている。朝方テーブルに着いたときは「これからもできるだけインデペンデントな生活を続ける」と宣言したばかりだった。できるだけ他人様の手を借りずに自力で通したい、という決意は自分自身に対する元気付けでもあったのでしょう。
しかし、夫はもう自力では1歩も歩けない。杖も使えなくなった。1本の杖でどちらかの手で体を支えることができなくて、立って使う三輪車のようなフレーム、と呼ばれるものに両手で掴まって、しがみついて、足を交互にずらして動く。それよりも、ベッドから起き上がるのが一苦労で、何かに掴まらないと体を起こせない。腰に全く力が入らない。ベッドのマットレスの下を掴もうとするが、そこまで手を伸ばすのが大変。後ろから腰を押し上げて手助けしようとすれば、腰に急な痛みが走って悲鳴を上げる。
だから、痛み止めを飲んでちょうだい、と半ば強制的に飲ませている。痛み止めはこのためにドクターがくれたのだから、飲めばいいんでしょ、我慢しないで、といってやった。ようやく起き上がると、頭を下げて体を丸くして一休みする。それから立ち上がると、体を伸ばして一休みする。
ベッドルームからほんの10歩程度の間を小刻みに床をこするように足を動かして、ようやくダイニングテーブルの所定の位置に辿り着く。それから、腰を下ろすのがまた新しい挑戦、といった具合にすべてが難儀。難儀とは困難な儀式、ということだったことを再認識して、こんな瞬間、本能的に息抜きをしている私はまだ正気。
だが、その難儀の末に夫は慟哭した。惨めなざまに耐えられなかったのだろう。大の男が泣くなんて、よほどのこと。だが、人間はこんなときは大人の見栄などかなぐり捨てて、幼子に戻ったように泣けばいいのだ。悲しみを飲み込んで、心の奥へ戻すより、涙で洗い流してしまえばいいのだ。背中をさすって、泣き沈むのを待つ私はまたどこか冷静で、ここで本来なら妻の私も共に泣くのかな、と少し戸惑っている。「ごめん」とすまなそうに言って、夫は泣き止んだ。
この病気は残酷極まりない。インターネットでは、イギリスも日本も現存患者数は5000人と多くはない。でも両国合わせて1万もの人がこんな残酷に耐えて生きているのかと想像すると気の毒でならない。がんもいやだが、まだ打つ手があるだけましというもの。娘は、がんよりいいかしら、という。私はがんのほうがいいでしょう、といっておろかな会話と知りつつ、繰り返している。エイズみたいかもね。そう発病しているエイズに近いのではないかしら、でもエイズは今薬が開発されているらしいから。お互い腹の中で、ALSは、すると最も絶望的な病気なのか、という結論に落ち着いている。
息子がインターネットで調べた「エリックのページ」はALSと奮闘しているアメリカ人のストーリーとアドバイスが満載されている。中でもショッキングだったのは、次なる言葉。「死ぬ準備をして生きよ」(Prepare for dying)そのあとに「ギブアップして何もしないで生きるか、またはトライするか」と続く。彼はトライ(挑戦)して生きていることを世界中の人に伝えている。
夫も人生にまだ何もギブアップしていない。これからも涙を流すごとにすがすがしい力を得て、その力で困難に挑戦していけばいい。