イギリスの新聞の名前をまだ全部覚えていない。数がとにかく多い。タイムス、インデペンデント、デイリーミラー、などなど。サイズがタブロイド版になって、それだけページ数も多くなった。日曜になるとサンデイペーパーと呼んで、更に分厚くなってそれだけ抱えて歩くのがようやく。先週の一紙は114ページもあった。そこへ特集マガジンも付いてくる。人々はそれを日曜一日かけて読むのが習慣だという。近くにスターバックスもあって、新聞を読みながら優雅にモーニングコーヒーを飲んでいる。外人はサマになる。

 イギリスのコインを全部覚えるのに3週間かかった。1ポンド、50ペンスから、20、10、5、2ペンスとペンスが5種類、それに1ペニーと全部で7種類あって、1ポンドは日本の百円硬貨のサイズだが、厚さは3倍はある。10枚もためるとバッグが重い。夫のスーツのズボンのポケットはどれも薄くなって穴が開いていて繕うのが一仕事だったことを思い出す。しまいに面倒で、穴をくるくる巻きにして安全ピンで留めていたが、穴の原因はすべてこのコインだった。昔のコインはもっと大きくて重かった。

 こちらに来て一番うれしいのは人々が道をすれ違うとき、さりげなく目を合わせて、軽くスマイルすることだ。日本人はわざと顔をそむけて知らん振りする。笑いかけようものなら、あんたなんか他人でしょ、と怒った顔をされる。狭量でケチ。スマイルも出し惜しみする。スーパーでも店員が「ハーイ」と挨拶してくれるので、むすっと入っていく私はあわてて「ハーイ、ハウアーユー」。これで期せずして笑顔になって、ついでに心まであたたかくなるから不思議。スマイルこそ全世界共通の愛の挨拶なのだから大いにばら撒こう。

 夫をケアする人が男女二人セットで日に2回来てくれることになった。二人ともなぜか黒人。イギリスにはアフリカ系の黒人が多くいて別に珍しくない。朝はベッドから起こして、お風呂に入れてくれる。夜はベッドに寝かすために来てくれるのだが、本人がさっさと寝ないので諦めて帰ってしまう。これも無料派遣で、しかもホスピスを退院したその夜から来てくれて、この漏れのない手配に惚れ惚れしている。完璧なヘルパーシステムに脱帽して、つい日本のALS患者さんもこれほどの援助を受けていてほしいと願ってしまう。

 こんなに専門家が現れては自称介護主任の私は失職しそうだが、夕べは夫のお尻を始めてトイレットペーパーで拭く破目になった。日本から持ってきたベビー用お尻拭きで一点の曇りもなくなるまできれいにするが、肝心の排泄口がわからず、あちこち擦るので、イタイと悲鳴をあげる。それくらい我慢してよ。こっちは神経の先が痛いのだから。ベビーのオムツ換えは少しも苦にならなかったのに、成人の始末はいっとき窒息してしまう。もちろん、この作業もプロにしてもらえるのだが、タイミングが合わない。

 リラは幼稚園が決まらないので家にいて退屈で欲求不満。テレビの早朝漫画に子守をしてもらっているが、足りない。息子は相変わらず幾種類ものサプリメントをすりこぎで砕いて、ヨーグルトとフルーツを細かく切って混ぜて病人に食べさせている。飽きなく続けるから、作るほうも食べるほうも偉い。こうなると息子の執念で治せるのかもしれない。

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