3月20日帰国の日、朝起きると夫のパジャマパンツのほころびと息子の靴下の穴を縫っている。みなが‘スーツケース暮らし’なので、破れても簡単に捨てられない。私は針を持つのが大の苦手。針に糸を通すのもいや。その昔、田舎から母が上京すると、ためてあった繕い物を全部出して繕ってもらったものだ。その母も90を超えたのに子供たちとの同居を拒んで佐渡で一人暮らしをしている。京都女専を出て、女学校の先生をして、嫁いだあとは農閑期に村の女性たちに和裁を教えていたというのに、娘の私は運針もできなくて、中学のテストで、一針も前に進まず零点だったのを思い出す。帰国したら、電話で報告しなければ。

 今度は最低3週間、日本で疲れを完全に取ってからここへ戻ろう。十分に体力回復してからでないと中途半端では誰のためにもならない。子供たち2人にピペットが加われば、3強作戦で、年寄りはレギュラーから外れてもいいのかも知れないが、それでも私には料理番の役が残っている。私は自己流だが、料理がうまい。手持ちの材料を使って、頭の中で想像して、作るのが上手。

 あけぼの会のランチは会を始めたときから、いつも会長の超独創的手料理でおもてなし。心を一つにして働くには同じ釜の飯を分け合って食べることが大事と考える。台湾の患者会のローラ会長がどうして会長がクックするのか、と聞いたが、うまく説明できなかった。どうでもいいことに私がこだわっているのかもしれない。あの人たちは手弁当だそうだ。

 先日は味噌汁の具に事欠いてトマトを入れて、みなを驚かした。意外性で勝負。何でも前人未到をやってみればいいのに、10年一昔、決まりきった具ばかりでは食べさせられるほうが退屈だろう。スタッフも「これはいける」と思うと、早速今夜のおかずにします、と真似してくれるので私は内心得意になる。

 夫は退院1週間近くなっても少しもコレクション整理の仕事を始める気配をみせない。積み上げられた40はあるプラスティックケースの山を見ようともしない。どうしたのだろう。さっさと片付けてくれないと、このまま残してもらっては遺族が困るのよ。死ぬことを忘れてしまったみたい。それどころか、娘にこっそり「7年このままいれば、生きられるらしい」といったそうだ。インターネットで誰かの手記を読んだらしい。まだ未練を断ち切れないでいる思い切りの悪い男よ。

 私は28年前、37の時がんになって、一度死んだ。当時は「がんイコール死」の概念だったので、誰がなんと慰めようと死ぬことに決めてしまった。恐怖と絶望と自暴自棄の時を経て辿り着いた結論は「いつ死んでもいい生きかたをする」だった。それが何故か今も生きていて格好がつかないのだが、潔い生きかたは今も通している。通しているつもり。

 夫の心の中までは覗き込めない。生にしがみつく執念を最後まで棄てない生きかたがあってもよいのだ。比較的あたたかった昨日の午後、息子と娘が二人で病人を車椅子に乗せて近くの公園に連れ出してくれた。紫外線を直接浴びるなんてバンコック以来のこと。