夫の財務始末係長の娘がスコットランドにある(という、ガンダーラガンダーラ)僅かな隠し財産整理のために3泊4日で出張することになって、ビクトリアステーションまで見送ってきた。この駅はデビッド・リーン監督「逢びき」の映画に出てきた駅。郊外から週一回ロンドンに買い物に通う人妻が医師と恋に落ち、逢瀬を重ねて遂に、という場面で思わず邪魔が入り・・・そして悲しい別れ。居間で思い出に浸る妻に夫が「長い旅だったね」と言葉をかける。無理な蜜愛は長続きしないのよ。でも「短くも激しく燃え」という映画もあったから、恋愛はしないよりしたほうがまし。私もしたい。悲恋でも破恋でも。
私たちの最寄の地下鉄駅はベルサイズパーク。家から早足で10分はかかるが、そこまで歩けば、地下鉄で大体のところへ行ける。その地下鉄の中で「サンディ、あのままでいいのかね」と切り出すと、「誰も替われないからしかたがない」という。「ホスピスにでもまた入れてもらったら」と提言したくてもそれをさせない雰囲気に負けて、この私が口をつぐんでおしまい。やはり「死ぬまでべったり介護して、あとのことはあとのこと、今は考えても仕方ない」娘は暗にそう言っている。
見ていると、娘も息子も父親と完全「一心同体」、「一身胴体」。起きている間はずっと世話をしていて、その一々はすさまじいのに、至極当然のこととしてこなしている。病人は日増しに本物の病人になっていて、わがまま。自分のことで精一杯なので仕方がないが、子供たちの将来を案じるだけの思考エネルギーを失くしてしまっている。コレクションから抜粋して一冊の本を作る構想も娘が付きっ切りで始めたものの中断して、もはや誰も言い出さなくなった。立ち上がる力だけでなく、しっかり座っているバランスも怪しくなって、支えがなければ斜めになって簡単にずり落ちそうになる。どこにも力が入っていない。
そんな病人を見捨てることなく、夫の友人たちが次々と訪問してくれるのはありがたい。電話が来て、いついつ何時ころ、ちょっと立ち寄りたいが差し障りはないか、と聞いてくる。こちらが忘れていた人でも自分で決めた間隔で会いにきてくれる。頭が下がる。私は今まで、病気になった友達を、このように自分で日を決めて、訪ねてあげただろうか。あげてない。死んでしまうとわかっていた友でも、自分の都合でしか、見舞ってあげてなかった。これからは夫の友人たちを見習って、カレンダーに書き込んで、会いに行こう。
それで、今日はジゼルダというニックのもとカノ(奥さん)が1時に、ヤンセン氏が2時に来ることになっている。ジゼルダには一昨日作って残っているスパゲッティソースがあるからランチを一緒するように来て、と言ってある。このソースはキャロリンも試食して「ベリーグッド」とほめてくれたので、自信を持って振舞う予定。どこに行っても、何かこしらえては、食べなさい、と強引に進める私は心理学的に分析すると幼児期に極端に貧しい食事環境だったとか家族愛の欠乏とか、ではなかろうか。
渡英10日でようやく時差病から脱皮、本来の自分を取り戻して生きる希望も湧いてきた。何を隠そう、私は今「SUDOKU」にはまって、連日、日本発「神経衰弱」に挑戦している。