「ウオータールー」と聞いたら、「ウオータールーブリッジ」、そう、ヴィヴィアン・リーの「哀愁」。ヴィヴィアンはあのローレンス・オリビエと実生活で結婚して世紀のカップルだった。お馴染み「風とともに去りぬ」のスカーレット役が私は一番好き。あの激しく勝気で支離滅裂な性格が私にそっくり。そして「チャーリングクロス」と聞けば、「チャーリングクロス街84番地」。やっと三重の小野さんが愛読書だといってきてくれた。今ころはYahooで、作家もあらすじも、映画化されたかもわかるので、あやふやな解説はやめる。

 7月19日、OXOタワーというテームス川に沿って建っているビルに行ってきた。実は今回特命を帯びて渡英してきていたのです。<BreastFriends>キャンペーンのプレス発表会に出席すること。パリに負けじとばかりに昼間35度で燃えていたロンドン。その暑さの中をタイシルクのドレスを着て、ストッキングはいて、ハイヒール履いて、タクシー呼んで、出かけた。娘の勧めでサンディが淑女のエスコートしてくれることになった。彼は少しもいやがらず「行ってもいいよ」。こういう性格が、血縁ながら、私にはないので、羨ましい。

 あのハーセプチンの製薬会社ロシュ社(日本では中外製薬が合併)が世界あちこちから著名人を供出させて、Rankinという、知る人ぞ知るカメラマンに顔写真を撮ってもらって1冊のアルバムにして、それを元に「乳がん啓発世界キャンペーン」を展開しよう、という企画。日本からはあの音無美紀子さんと息子の健太郎さんが参加してくれて、会場には二人一緒のいいお顔の写真もあった。ミックジャガーの元ワイフの双子のシスターがやはり乳がんになって、それを機に、このキャンペーンガールになったジェリー・ホールがビデオメッセージを送ってきていた。各国のテレビカメラが数台回って、かなり本格的。

 パネリストの一人、アムステルダムから来た女性が、自分の母親が、最初に診てもらったドクターからなんでもない心配ないと言われて、1年間放置したあと、別の病院で乳がんと診断された苦い経験から、乳がんに対する正しい知識を持つ重要性を強調した。そして、当時、自分の仕事をやめて1年間母親の闘病に付き添った体験を話した。仕事をやめて父親に付き添っている息子は彼女の話に自分の現在を重ね合わせただろうか。20カ国グローバルキャンペーンというのだけど、アメリカやフランス、お膝元のイギリスからの参加の気配が見えない。モンテネグロのテレビにインタービューされた私。どこの国だったっけ。

 帰国が明日に迫ってきた。病人が目に見えて弱ってきている。唯一作動していた右腕右手の力も萎えて、2回に一回はスプーンを自力で口に運ぶのを諦めて、私やピペに食べさせてもらっている。以前は食べさせようとすると怒ったのに、もうその元気はない。右肩が痛い、というのでマッサージすると「ウーン」と声を出して、気持ちがいいことを伝える。よほど痛むらしい。ピペも娘も、左腕の痛みを訴えて間もなく左全体が使えなくなったことを覚えていて、この先行きを誰もが案じている。パリのホテルで私と二人だけのとき、粛然と言った。「右手が使えなくなったら死ぬときだ。オランダかベルギーでの安楽死(合法)を子供たちには頼んである。自分で何も出来なくなってから生きている意味がない」