人間、その場に自分しかいなくてどうしても自分でやらなければならない状況に追い込まれると、やるものだということがわかった。私はミキサーを使えなかった。あのギャーという機械音に耐えられないのと、指先きでも挟まれてしまったら、と想像して怖くてならない。子供の頃、村の製材所であの大きな電気のこぎりで手を切り落とした話を聞いたり、映画でもあれで腹を切られて死んでしまった話なんかあるので、ギャー音が断末魔の叫びに聞こえる、といえば少し大げさだが、私は一生ミキサーは使わないつもりだった。

 それと、車椅子の夫を私一人で外へ連れて出るなんて、恐ろしすぎる。第一、横断歩道を渡るのだけだって、本当に止まる気があるのかどうかわからない猛スピードで際まで走ってくる車。この国は車のほうが人間より威張っているので、殺されないようにひたすら自衛しなければならない。だから、夫を私一人で外敵から防衛するなんて荷が勝つのよ。

 それなのに、今はミキサーで病人食をほぼ毎回作り、既にリポートした通り、先日はニックの家まで一人で夫をガードして往復した。この外出にはおまけがあって、帰り道、ここまで辿り着けば家はすぐそこ、の安堵の曲がり角で夫はまっすぐ行きたいと主張、ひざに右人差し指でPARKと書くではないか。ついでに公園まで行きたい、と言っている。力が抜けた。車椅子は一定のスピードで走るので、後ろから行く私も同じ速さで休みなく付いていかなければならない。息が切れても、追いつけ追い越せ、の日本経済みたい。

 ああ、しかし自分しかその場にいなければ他に誰がこの任務を肩代わりしてくれるというのだ。仕方なく車椅子先導でリージェントパークまで足を伸ばした。横断が3箇所もある。公園の入り口を入るや、そこに見えていたベンチにへたばりこんでしまった私に、あんたは家に帰りたいか、と聞いてくれる。その車椅子に座りたいのよ、と叫んでやった。

 気が付くと、この日は晴れていて、公園の小高い丘から見下ろすロンドンの街はパノラマ、人々が芝生に座って、あれは○ビルあれは○○タワーと指差しながら眺望している。苦あればいっときの静けさ、秋盛りのこの眺めを私に見せたくて、わざわざ連れてきてくれたのかも知れない。私たち夫婦は近年、二人で公園を歩くなんてことはなかった。懐かしい世田谷公園も私は愛犬シンチャンと、夫は軽いジョッギングのために行くだけで目的が違っていた。思えば、これからも手をつないで散歩する絵に描いたような老夫婦は演じられないのだから、これもいい思い出になるだろう。この次は望遠鏡を持ってこよう。

 山盛りのとんかつを見て、アイザックは「ミセスワット、日本で最後にお宅へ行った時もとんかつだった。それにしてもこれで足りるの?」とまじめに聞くので、えっ、テスコの豚を買い占めたというのに、まだ足りない? ついまじめに反応する私の両肩に手を当てて、ジョーダンジョーダンと親しみのウインク。この私をからかうなんてニクイ。

 食うだけ食った男どもは揃って二次会に出かけていった。みなが、サンキューミセスワット最高のディナーだった、と褒め称えてくれた。朝方4時に朝帰りした息子はその日寝不足で、娘が予言していた通り、完全にぶち切れて、夜中の大騒動に繋がったのだった。

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