夫の病気が判明してから、仕事のやりくりもあり、一部の関係者に事情を伝えた。すると大半の人が「大変ですね、私に何かできることがあったら遠慮せずにいってください」という。でも、これって慰めでもなんでもない社交辞令的決まり文句ではないだろうか。会社の帰りに買い物して届けてちょうだい、なんて頼んでもいいのだろうか。実は私もこの手の社交辞令を平気で使っていた。体よくこの一句を述べて、あとは放念。相手もそれ以上は言ってくるまい。

 比較的親しくしているドクターにもさまざまな反応を見た。まず「夫が運動ニューロン病って告知されたんですけど」「えっ、本当?それは大変な病気よ、ワットさん、どうする」と一緒に泣きそうな顔で同情の念を表してくださった埼玉医大の佐々木先生。「えっ、本当なの、あなた、あなたがこれから大変よ」と親身に気の毒がってくれた、掛かりつけの女歯医者、加藤先生。

 この先生がたは「大変な病気になったものね」と事実を包み隠さず、「何かできることがあったらいってね」などの甘くて無責任な慰めは言わない。手助けしてどうなる病気ではないことをわかっているからだ。クールがいい。病人もそうだが、看病する私への気使いを存分にしてくださっていて慰められた。

 「日本で治療をするなら、うちの病院にもよい精神神経医がいます。まず治療体制を整えましょう」と具体的な支援を表明してくださった聖路加の中村先生。これは心強い。できることなら、すぐにでも夫を日本に搬送したいと思ったことです。患者と主治医の信頼関係の重要性は取りざたされても、患者の家族が信頼できる主治医の方がほしいこともあることに気がついた。中村先生、ありがとう、ご親切は忘れません。

 一方で「運動神経に異常をきたして、足とかが動かなくなる病気でしょう」とメールで返事しておしまい、のお医者さん。超自信家です。他人事で片付けられました。

 友人もさまざまな反応で、大半が「かわいそう」と同情はしてくれるが、そこ止まり。ただ一人だけは違った。「銀座へ出てきてよ」コアビルの地下で讃岐うどんを食べて、スターバックスでコーヒー飲んで、その日は晴れていたので気分のよい冬の一日になった。何か言えば、私が泣き出しそうなのがわかって、病気の話は避けて、よって、あまりおしゃべりはせず、静かに座っていた。

 これからは人が困っていたら、こんな風に行動で慰めてあげなければ、と思い、今までの、通り一遍、言葉だけの同情なんて、いかに浮ついたものか、恥ずかしくなった。また、本人もそうだが、ご主人や子供、親の病気(死に至る病ならなおさら)を抱えた人に、もっといたわりの心を送り、それをまた具体的に行動で示してあげなければと思った。

 たとえば、夜に電話の一本もすればよいのだ。私もバンコックへ来るまで東京のマンションで誰かが電話してくれないかと待っていた。不安な胸のうちを話したいのに、誰も電話をくれない、日ごろの友だち付き合いに問題があったのか、と急に自信をなくしたり。電話もいいけど、何か小さい贈り物もいい。傷んだ心にふんわりやさしいプレゼント。値段じゃなくて、気持ちを込めて贈る。これだって、結構面倒くさいが、これからは面倒がらずに、すぐにする。

 ほかにも参考になる情報のインターネットアドレスを教えてくれた人がいて、これは助かった。これだって、具体的にお役に立ちたいという意思表明をしている。

 おもうに、真に親身に相手を思いやるということは、行動して、相手の中に一歩入り込むことで、相手との距離を少しも縮めることなしに何か言っても、それはうそ寒いだけ。真に思いやっているとはいえない。

 行動には勇気が少し要るが、その勇気こそ、真の同情でいたわりなのです。

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