うっかり、私の胃細胞検査の結果報告忘れていました。「心配なものではありません」でした。ホッとしました。みんな、これを期待して、しかし「悪いものでした」でもありうる、と自分に言い聞かせながら、審判場に臨むのですよね。悪ければ、「そして、がんの幕は切って落とされた」というヒューマンドキュメンタリーの始まり。今日も幾千の善良市民が日本のあちこちでドラマの主人公になる。

 ここに一人の会員がいて、術後23年も経っているのに、今、3回目の再発治療のために入院中。痛みが激しいので、とりあえず、それを抑えてもらっている。個人的にも親しくしている、とても気の合う会員なので、一刻も早く見舞いに行かなければいけないのですが、怖くて行けなくている。「即行動」がモットーの、会長らしくないのです。

 それにしても、乳がんのしつこさよ。どこまでも執拗に付きまとって離れない、未練たらしい女みたい。ことの起こりは術後7年目、胸骨の最上部分が肥大しているように感じて検査をしたら、骨転移と判明、その時点から、がんとの真剣勝負が始まった。

 こういう例を見るにつけ、がんは再発してからの闘いが真の闘病で、再発しなければ他の病気と変わらない。もっとも他と顕著に違う一点は、再発するかも知れない不安爆弾を抱えていることではあります。

 その後、すっかり元気でいたのに、再度の入院が今から4年前、あの時は肺転移だった。抗がん剤で髪も一度は抜けて、かつらをつけていた時があったのですが、それでもまた、復活して普通の生活に戻り、昨年の「あけぼの会25周年大会」には出て来てくれて、壇上で私が紹介したゲストの一人。そう、彼女は会の創設期の苦しい時に私を支えてくれた‘一生の恩人’なのです。

 今でこそ、郵便物は業者に任せての発送ですが、当時は宛名は手書きで、封筒は糊かセロテープで貼って、切手を貼って、郵便局へ運び込んだ時代。彼女と二人でスーパーのショッピングカートに山ほど袋を積んで、局まで押していった姿を今思い出す。カートはまっすぐ走ってくれないで、斜めに勝手に滑っていく。それを病み上がり?の二人が1台ずつ必死で抑えて、押して、今思うと、あれは重かった。それに二人が途中で互いの姿を見て、笑い転げてしまうので、力が入らない。

 でも帰りには生ビールの3リットル缶の冷えたのを買ってきて、みんなで打ち上げ飲み会をして楽しかった。手作り時代には苦労もあったが、そんなあったかい楽しみがあった。

 彼女を見舞いに行かないのは、ベッドの中の彼女を見れば、気の毒で、泣き出だしてしまいそうで、自信がないからなのですよ。でも彼女はきっと私を待っている。どうしても行かなければ。行って、笑顔を見せてこなければ。

 それにしても23年もじわじわと人間の体を蝕み続ける小さな魔物。絶対に消えてなくなることがない<がん>という曲者こそ憎い。世に学者はたくさんいるのに、たった一つの細胞の変化を予知できないなんて、と科学オンチの私は嘆いている。