前回(AKEBONO NEWS No.6)は卵巣がんの膵臓転移でしたが、今回は肝臓転移です。それでも諦めずに闘い続けている不死身の中学校教師です。
治療の流れ
2002 年4 月15 日、1 回目、左乳がんの手術を磐城総合共立病院で。当時32 歳、ステージⅡ、温存手術、抗がん剤、放射線治療のフルコースで、仕事は1 年休職。2 回目の手術、広背筋による乳房再建手術。その後、郡山市の野水 整先生(現・星総合病院院長)と講演会で出会い、私の祖父、伯母、私の三代が乳がんということで遺伝子検査をしていただき、BRCA1 陽性が判明しました。
最初の手術から15 年、47 歳で右乳がん(2 回目の手術)、と同時期に、両方の卵巣がんが発見されました。この手術が3 回目、星総合病院にて。4 回目は左胸にポートを入れる手術、抗がん剤治療開始。5 回目は両乳房の全摘手術と抗がん剤治療の開始。これらを乗り越え、1 年間の休職を経て、職場復帰しました。
卵巣がんの膵臓転移〈2022 年1 月〉
その1 年後、6 回目の手術でポートを抜去。経過は順調でしたが、卵巣がん手術から4 年後(51
歳)、卵巣がんの膵臓転移が発覚し、7 回目の手術で膵尾部と脾臓をとり、抗がん剤治療をしましたが、カルボプラチンのアレルギー反応が出たので中止、PARP 阻害剤であるオラパリブ(商品名:リムパーザ)をのんでいました。
卵巣がんの肝臓転移が判明(2024 年6 月)
2024 年4 月から、久し振りに1 年生の担任をしていました。ところが6 月、いわき市医療センター婦人科で定期検査のCT を撮り、肝臓に1cm と1.5cm の腫瘍が指摘されました。7 月にPET CT の結果、星総合病院の胆肝膵外科の八島先生へ紹介となり、手術を勧められました。しかし、混んでいて最短で9 月10 日とのことでした。
夏休みに手術ができると思っていた私は、ぽっかり予定が空いてしまいました。乳がんの転移は手術をしないけど、卵巣がんの転移は、手術ができるならするそうです。
7 月15 日、54 歳になり、同19 日に1 学期の終業式。夏休みは、なるべく出勤して有給を減らさないようにしながら、友達と休みの日を合わせて取り、遊んで過ごしました。医療センターの大関先生(産婦人科部長)に術前抗がん剤治療はどうですか、と聞きましたが、小さくなったら手術ができないので、と言われました。
手術の説明─情けなくて泣いてしまう
8 月23 日に入院前の、いろいろな検査をしました。翌24 日に糖尿病の先生に肝臓の手術をすることを伝えたら、「木村さんは不死身だから頑張って」と言われました。
26 日は2 学期の始業式。クラスの生徒に、今までの病歴と、また手術をすることを伝えました。
9 月6 日に母と手術の説明を聞きに行くと、なんと、8 月23 日のMRI で、腫瘍が3 つ増えている、前の2 つも倍位に大きくなっていることが判明。手術できないことはないが勧めない、とのことでした。思わず先生の前で「失敗した!」と叫んでしまった。だったら、夏休みに抗がん剤治療ができたのにという想いと、「つんだな」(積極的な治療は終わったな)との想いが交錯しました。会計を待つ間、情けなくて泣き出してしまい、付き添いの母も一緒に泣いていました。
さて、そうとなったらのんびりしてはいられない。星総合病院にいるのに、医療センターに電話をして、その日の午後には受診できるよう予約しました。大関先生に手術ができなくなったこと、9 月10 日に手術を予定していたので授業もやりくりもしてあることを伝え、前日9 日に入院し、翌日に抗がん剤治療を行うことにしました。
今回はTP 療法です。カルボプラチンがダメでも、シスプラチンなら大丈夫な患者さんが多いということで、やってみることにしました。しかし、レジメンが長いので、入院でやることに。
現在の治療
いわき市医療センター婦人科の大関健治先生のもとで、3 週間に1 回、2 泊3 日で入院し、抗がん剤治療を行っています。2 週間後に通院し、採血で白血球などを見て、次回の抗がん剤治療ができるか判断する。入院と通院の日以外は、学校に行って仕事をしています。1 回目が終わったあと、しびれがひどくて、足に電気が走っていたので、仕事にならず、学校から電話をして、その日に、タリージェという薬を出してもらいました。
2 クール目の時に、私の希望で8 回目の手術、ポート造設です。今は腕に作るのがはやりとか
で、右腕にポートが入りました。左腕はリンパ節郭清をしているので、採血や点滴ができません。右腕はいつも血管が見つからず、何度も刺されるのが嫌なので、ポートを造ってもらいました。
2024 年は5 クールまで終了しました。3 クールが終わった後、CT を撮ると。少し小さく
なったようでした。新年も治療を頑張っていきます。時々自分にご褒美をしながら、これから
も闘い続ける覚悟です。
来年もカメラマン→だから私は生きる!
2024 年10 月12 日、【あけぼの会全国大会】で、カメラマンをさせていただきました。治療中で、行けるかどうか分かりませんでしたが、早くに参加費を振り込んで、気持ちは強く、行く準備を整えていました。そして当日、無事参加ができました。
「ニュースレターNo.10」に私が撮った写真を沢山掲載していただき、とてもうれしかったです。
そして、ワットさんが「来年もカメラマンですよ」と言ってくださいました。治療中の中村清吾先生がワットさんとの約束を守って今年も登壇なさったように、私もまた【2025 年の全国大会】でのカメラマンを目指して、治療を頑張ります。こういうふうにサラっ暗示をかける、さすがワットさんです。