全国大会in名古屋(2019/10/5)左端:高山さん、そして、ワット名誉会長、川野代表(兵庫)、馬戸さん(兵庫役員)
全国大会in名古屋(2019/10/5)の会場にて

●乳がんに・・・  
 左胸のしこりに気付いたのは、2014年4月、38歳のときでした。約半年前の2013年9月に会社の健康診断(マンモグラフィーと触診)では「異常なし」という結果だったこともあり、このしこりは何かな?と、自己検診を自宅の洗面台の前でしていました。がん家系ではないから、がんなんかでないよなぁと思いながら、仕事も忙しいし、健康診断でも異常はなかったし、とか理由を付けて病院に行こうとしませんでした。「私が、がんになるはずがない!」
 その後、家族の後押しもあり、家から近い乳腺科を探し、マンモグラフィーと触診の受診をしました。しこりが大きかったので、看護師さんから超音波検査もした方がよいと勧められ、超音波もしました。「おそらく『要検査』の連絡が届くと思います」と言われ、病院を後にしました。それでもまだ「がん」とは思っていませんでした。
 「要検査」の知らせが予告通り届きました。針生検、MRI、CT、骨シンチなどの検査を受け、5月末に検査結果を聞きに主人と病院へ行きました。病名は「浸潤性乳管がん」。医師はこちらの動揺などおかまいなしに、私達に背中をむけて紙に何か書きながら話をしていました。同席していた2人の看護師もひそひそ話をしていて、「がんです」と告げられるより悲しい状況でした。
 その後、上司の医師から、「しこりは最大47㎜、トリプルネガティブ、ステージⅡb」との説明を受け、「今のところ、他の臓器に転移はないので、すぐにでも治療を始めましょう」と言われました。このままこの病院でいいのか、と思いながらも治療の予約をして帰りました。

●セカンドオピニオン
 告知から3日後、主人とセカンドオピニオンを受けに、別の病院へ行きました。最初の医師の説明の仕方と雰囲気にちょっと不快感があったからでした。主治医となるK先生との出会いでした。先生は、私たちのほうを向いて、穏やかに説明してくれ、説明の途中でもこちらの質問に答えてくださいました。同席していた主人も「こちらの病院にしよう」と、K先生のもとで治療を受けることに決めました。
 幸いにも会社は、「治療しながら仕事を続けたらよい」と配慮してくれました。セカンドオピニオン受診から3日後、治療が始まりました。この日は私の39歳の誕生日でした。

●半年前の検診ので見落としが・・・
 ここで、治療以外に問題が発生しました。K先生が「健康診断でのマンモグラフィーの画像を見たい」と何気なく言われたのです。半年前の画像で異常なしにしては、しこりが大きくなり過ぎていると思ったそうです。取り寄せて、見直しをしたら、なんと先の病院の見落としだったのです。その後、「見落とし」「見落としではない」と、病院との話し合いが始まりました。

●術前抗がん剤開始
 パクリタキセルとアバスチン(3週投薬1週休み)を7クール(2014.6~2014.11)
投薬13日目に髪の毛が抜けだし、ここで始めて、自分はがんなんだ、と意識しました。髪の毛が抜けるとはわかっていても、気持ちが沈み、会社に休職を申し出て、休職に入りました。
 抗がん剤の副作用としては、流れるように鼻血が出たり、ほてりがありましたが、想像していたがん治療と違っていて、K先生も看護師さんも優しく、通院治療も苦ではありませんでした。ただ、これ以上はしこりが小さくならないだろう、ということで別の抗がん剤に変わりました。

●休職中に国家試験を目指す
 休職している間に、以前から目標にしていた一級建築士の国家資格試験のため、勉強を始めました。勉強することで気もまぎれました。この年の10月、ある講演会に出席したとき、初めて【あけぼの兵庫】を知り、その時は案内書をもらって帰りました。病院外で患者会があるのを初めて知りました。
 タキソテールとエンドキサン(1週投薬2週休み)を6クール(2014.12~2015.4)
これらの薬は、口内炎、白血球の減少があり、白血球の減少とともに高熱が出て、抗がん剤とは別に、点滴を受けに行きました。6クール目には、温存手術ができるまでに腫瘍が小さくなりました。 →つづく

今回は3回に分けて、連載します。
次回は5月15日ごろに掲載予定です。

バナー広告

とどくすり

共同文化社

コム・クエスト