まさかの妊娠
「点滅している小さい点が見えますか?これが赤ちゃんの心臓です。ちゃんと動いていますよ!」2019年5月20日、産婦人の先生にそう言われ、思わず涙がこぼれました。46歳と1ヶ月、まさかの妊娠でした。エコー画面の中の豆粒のような小さな命。私のお腹に赤ちゃんがいたのです。その年の3月に同い年の彼がプロポーズをしてくれて、結婚が決まり、6月末の挙式に向けて準備をしていたところでした。彼とは、職場の友人の紹介で知り合って1年経っていませんでしたが、とても信頼できる人でとんとん拍子に話が進み、両家顔合わせを終えた翌週のことでした。彼には、最初に自分の乳がん経験を正直に話しており、結婚の話が出る前に、子供は期待できないことを伝えてありました。出会った時すでに45歳でしたので、年齢的にも難しく、さらに乳がんの治療によって、自分は妊娠は不可能だと思い込んでいたのです。
乳がん発見
乳がんと分かったのは、7年半前の2012年10月上旬ことでした。なんとなく左胸の張りが気になっていたのですが、「生理前だからかな」と思っていました。その後何気なく見ていた雑誌に乳がん検診を勧める啓蒙記事があり、違和感を無視できない気持ちになりました。すぐにインターネットで調べて、岐阜市の朝日大学病院(当時は村上記念病院)に予約を入れました。検診は、触診とエコー、マンモグラフィによるものでした。担当の川口順敬先生がとても穏やかな印象で、少し安心できました。
先生は左胸を診て「特に問題ないなあ」と言われたのですが、次の瞬間、右胸を診てすぐ「ここに小さな水たまりのようなものがあるかな」と。えっ?と心臓の鼓動が速くなるのを感じました。エコー検査では、技師の方が右胸の一か所を何回も撮影されていたのを思い出し、「やっぱりあそこに何か問題が?」心臓の鼓動はさらに速くなりました。写真を見ながら先生は「やはり右胸上部やや外側に影がある」とのことでした。ただ、がん細胞特有の根っこのようなものもなく、良性の腫瘍かもしれない、と。より詳細な検査のために最速の受診可能日の予約を入れました。
結果待ちの間が一番怖かった
そこでMRIと針生検を受け、10日後に結果を聞きに行くこととなりましたが、結果待ちのこの期間が、今思えば一番怖かったかもしれません。不安で、毎晩、電気を消してから眠るまでがとても長く感じられました。検査には親族の署名が必要でしたが、まだ親には話せませんでした。心配かけたくなかったのです。そこで、近くに住む姉に頼むことにしました。乳がん経験者の知り合いがいて、その方は元気に仕事をしているので、がんになったから必ずしも絶望する必要はないと受け止めてくれると思ったからです。
初めてのMRI検査。父が以前人間ドックでMRIを受けた際、狭いところが苦手ですぐボタンを押して中断してもらったと聞いていたので、一体どんな恐怖体験かと思いましたが、目をつむっていれば何も分かりません。装置はリング状で、頭部側は空いていることも分かっていたので、閉じ込められている感じはなかった。音は確かに轟音でしたが、ライブハウスのようだと思えば、乗りのいいロックに聴こえなくもなかったです。
次に針生検でした。針で細胞を少し取り、悪性かどうかを調べる。私の乳房が固くて、先生は針を刺すのに苦労されていました。「固いというのは、乳腺がきちんと発達しているということなので、良いことなんですよ」と言ってくださいました。また、「今朝、自転車を降りる時にぎっくり腰をやってしまって、力も入れにくくて、すみませんねえ」とまで。自転車通勤の川口先生、ここでもホッと和みました。
39歳のがん宣告
細胞採取後、先生は次の予定に向かわれました。乳がんの手術でした。今日この時も誰かが乳がんの手術を受けている、乳がんは決して珍しいことではない、つまり、自分がそうであってもおかしくないと感じました。検査は部分麻酔だったので、検査後少しそのまま横になって休みました。「写真を見ると、がんとは違うんじゃないかなぁと思うんだけど・・・。違うといいなぁ」横にいた梅田看護師は優しく言ってくださいました。私は、以前乳がんで亡くした愛犬の話などし、梅田看護師のおかげで、落ち着いた気持ちになれました。
2012年10月31日、結果を聞きに来た病院の待合室で〈あけぼの会〉のチラシを見て存在を知りました。ピンクリボンキャンペーン啓発活動についても。私が検診を受けるきっかけとなったあの時の雑誌の記事も、こういう団体の活動の紹介だったと。「もし、がんではないとの結果だったら、感謝の意を込めて、この団体に寄付をしよう!」と決めました。
梅田看護師に呼ばれた際、心なしかお顔が曇っていたような気がしましたのですが、診察室に入った瞬間、MRIの写真がくっきり映し出すしこりが目に飛び込んできました。「がん」、そう確信しました。川口先生からは、1.5㎝ほどのしこりで、生検の結果、悪性であること等説明されました。目の前が真っ暗になった!というより、先生の説明を冷静に聞こうと必死になっていたという感じでした。戸惑いを隠そうとする自尊心が一番にあったのです。39歳で受けたがん宣告でした。
仕事仕事の日々だった がんと分かった時、「どうして私が?」というより、「だろうな」と納得する気持ちのほうが強かったと思います。当時、私は職場では海外の取引先とのやりとりをする部署の事務をしていました。毎日忙しく残業続きで、朝8時前から夜10時過ぎまでという生活を、その時点で2年ほど続けていました。また、土日も仕事をしたり、趣味の登山やバドミントンをするなど、寝る間も惜しんで常に何かをしていました。仕事も遊びも、自分が好きでやっていたことで、残業を減らすために効率的に仕事をこなす方法を研究したりしていましたが、結局は睡眠を削り(平日は4時間、5時間寝れば超ラッキー!)、湯船につかる時間も惜しくてシャワーだけで済まし、ご飯も仕事をしながら簡単につまめるもので済ますというような日々でした。 朝ご飯はしっかり食べる派でしたので、三食は一応とっていましたが、栄養バランスという概念が全くなく、時間に追われ、心身ともに自分の健康を考えるという発想は皆無でした。勿論、しんどかったですが、「自分の限界はどのくらいなんだろう。今99%ぎりぎりなら、ちょっとセーブするけど、まだ75とか85%とかで余裕があるなら、もっともっと働くのに」と思っていました。今考えると、本当に愚かでした。 つづく→
この続きは、9月2日(水)に掲載予定です。