●19日、11時からの小さなお葬式はしめやかに執り行われた。家族3人とアレちゃんと9時半、タクシーで葬儀社に向かう。てんでに喪服的なドレスアップをするのに朝から狭い家の中をぐるぐる廻ってお支度。私は日本から用意して来てなかったので、アレちゃんの25センチの中ヒールに詰め物をして間に合わせ。外は暗くて冷たい雨、不幸に格好の背景。棺の主に最後のお別れをした。みなが泣いて、鼻をかんでいる。死に顔は凛々しかった。闘病中は首が座っていなかったので、ぐらぐらしていたが、今、全身が固まって、安泰。

●棺はベンツの霊柩車に乗せられ、一行はその後ろにベンツのワゴン車で付いて動いた。ベンツ、よしよし。棺と同じ車に、喪主が写真や位牌を抱いて乗ったりしない。大体、写真も位牌もない。歩道の人の中に聖霊アーメンの十字を切る人がいた。「安らかに神のもとへ」と祈ってくれている。車はゆっくり目に走り、30分かけて火葬場に着くと、参列者6人が待っていた。弟夫婦とその一人息子(弟は私と同じ年だが、生前、一、二度しか病気の兄を見舞わなかった、怖くて直視できないという理由で)夫の唯一の兄弟だったのに。

●真の親友のニック、キャロリン、ジャンセン夫妻。みなが黙ったまま軽く微笑んで、これ以上やさしくできない表情で私たちに弔意を示してくれている。教会の中に入ると祭壇に棺が横たわり、娘が前日に花屋で選んだ濃いピンクと紫の花と緑の葉っぱの横長の盛り花が棺にかぶさるように飾ってある。白一色より、瑣事にこだわらなかった故人の自由と寛容の表れのよう。ゴージャス。娘にグッドチョイスと褒めてやる。女牧師が開会宣言、何と「千の風」、思いかけず「あれっ、これ日本のだ」とか小声で叫んでしまったバカな私。

●ニックが友人代表で短くスピーチをした後、息子が世紀の名スピーチを始めた。「一言で言えば、無条件で私とマイ・シスターを愛してくれた父だった。どんなに忙しくても、学校の行事、スポーツの試合など、たったの一度も欠かさず参観に来てくれて、一番前に座って、友達にも‘サンディのパパ’‘ジェニーのパパ’と人気者で、恥ずかしかったが、うれしかった。何でも容認、叱られた記憶がない。自分が将来子供を持ったときに子供にどう対すればよいか、身を持って示してくれたのだと思う。父を心から誇りに思う。」

●時折、感極まって涙声になり、間を置いて、また始めるという流れだったが、みなすすり泣いていた。もっともっと聞いていたかった。予定に入ってなかった娘も釣られて立って行って、追加の弔辞を述べた。故人の祖父がスコットランドで牧師をしていたので、その人が書いたという讃美歌をオルガンに付いて、口パクで歌った。私達は死に顔を数回見ていたが、参列者は弟も含めて、火葬前にも誰も顔を見たがらなかった。日本人とは違う。

●心のこもった素晴らしいセレモニーだった、とみなが息子と娘を賞賛した。私は鼻が高かった。夫に見せたかった。彼は8年も前、病が始まる前にサンフランシスコで息子に「私の死後、開封のこと」と書いた小さい封筒を渡してあって、それを開封した。そこには「私が死んだ後、ああすればよかったなどと、決して自分を責めることのないように」と手書きしてあった。また、ALSとわかるとすぐ「69年の人生に満足している。お母さんと結婚して、あなた達のような子供達に恵まれて、本当に幸せだった」と息子に述べたという。

Mailto
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