6月28日、2ヶ月ぶりにヒースローに降り立った。本来なら、7月11日の奈良、12日の名古屋での講演会を終えてから渡英予定だったのが、息子から緊急召集がかかった。危篤ではなかったが、病人が目だって弱っているので、元気付けのために可能なら早めに来てほしい、という頼みだった。遡って2週間前に娘からも、ダディが熱を出し咳も止まらない、と言ってきて、そのときに既にフライトの変更をしかけていたら、元に戻ったので来なくてもいいというお達しで安堵した矢先だった。こうなると、私のほうが落ち着かない。

 やはり行くか。息子に確認しなおすと、来てほしいけど無理ならいいよ、とはっきりしない。私は年間予定を立てて動いているのだから、無理をしなければ行けないんじゃない。娘に探りを入れる。予定通りでいい、と言っていたはずなのに、本当に来てくれるの、と喜びを隠せないトーン。娘はいつも私に気を使うので、この素直な喜びが本音だったか。迷う。私は社会的約束ごとはきちんと果たしたい。できれば、全部こなしてからにしたい。ただ、二つの講演会は会の主催なので、支部長たちがしっかり代わりを埋めてくれる。

 更に迷う。そして得たのは、人生は何事も自分で決断するしかない、という極く当たり前の結論だった。誰に相談したって、正解があるわけではない。決断というストレス。思えば、私の人生はこのストレスの連続だった。自分で決めて自分で実行、ひばりの人生一路。そして機上の人となった。本当は成田空港に行きたくなったのかもしれない。4月28日にイギリスから帰って、5月14日から10日間、ロス・アンジェルスに行ってきた。ファイザー財団の招待で寄付受与者が世界中から集まるミーティングがラ・ホーヤであった。

 妹(昨年のあけぼの会創立30周年大会会場に突然現れてみなをびっくりさせたあの人)がこの会場から車で1時間のところに住んでいるので、何を隠そう、これを口実に何年振りか、彼女の家でのんびりさせてもらいに行ったようなものだった。あの大好きなカリフォルニアの暑い陽射しにも浴びたかった。妹はアメリカに住んで30年近くなる。夫の病気が始まるまでは、年に一回、大抵11月に訪ねて、3週間位泊めてもらって、あちこちのディスカウントショップ巡りをして、翌年の秋の大会のお衣装を探すのが恒例になっていた。

 そして、今回の出発が6月28日、こうなると私は月に一回成田空港からどこか遠い国へ飛ばないと落ち着かなくなっている。習慣とは恐ろしいもの。もはや、あけぼの会の仕事に身を入れられなくなっているのかもしれない。こっちのほうが大きな問題だ。

 病人は一段とやせて、足の骨なんか以前に増して突起して、なでると鉄骨の如し。戦時中の捕虜のような様相だ。手厚いケアを受けているので、悲惨な捕虜にたとえては申し訳ないのだが、つい映像が浮かんでくる。終日ベッドで首をほぼ垂直にして寝ている。平らにすると呼吸ができないから。食事はパックの栄養食をイロウから流すのみになった。時たま目をうっすら開けて、人の顔を凝視、かすかに微笑む一瞬があったりする。起きていれば意識はまだあるので、この時とばかりに話しかける。何の因果でこの人はこうしてまで命永らえているのだろう。みなに倦怠と疲労感が見えているが恐ろしくて口に出せない。