2ヵ月半ぶりの大英帝国、午後4時半到着、太陽がまぶしく照っている。長蛇の列を予想していた税関もウソのようにからっぽで、さらっと通り抜け、ミニキャブに乗りこむや、目指せ、88 Greencroft 通り。病人も孫も娘も待っている。息子は仕事で夜まで帰れない。1月にここを去るときは疲労困憊、ほうほう(這う這う)の体での退散だったが、今はすっかり生気を取り戻しての帰還、何でも来い、の気構えだ。約75日も日本から動かなかったことで、本来の底力を取り戻した。人間は休めば必ず元の体に戻ることを身を持って知った。

 病人は私の顔を見て微かに反応したが、以前のように涙を流し声を出して歓喜しなくなった。なんでもどうでもいい、という感じでボワーッとしている。それでも、裏庭には山吹の花が一かたまり黄金色に咲き茂り、すぐ隣にはレンギョウも陽の光に輝いている。紫、赤紫、白などの小さな花もあちこちに負けじと咲いているのだが、名前を知らない。英国花図鑑を買ってくるべき。裸坊主だった柳とプラタナスの大木も誇らしげに緑の葉っぱを風に揺らせて、私を歓迎してくれている。私を覚えているのだろうか。無条件に春はいい。

 イギリスに一刻も早く行かなければ、と日本で焦って仕事を片付けてきたが、私が来ようが来まいが大勢に影響なかった、の雰囲気。病人は細かいひげがはえているせいもあり、一段と病人顔。上腕は固く細まり、足の骨が三角に尖って、昔でいう栄養失調人間みたい。感情を表さないので、単なる一個の物体になって、ただ横たわっている。これでは死んでいないというだけで、生きているとは言いがたい。でも数日前に子供たちが声を荒げて言い合いをしたらしいが、それを見て泣いたそうだから、脳はまだ正常に機能している。

 ニックとジェームスが娘に「もういい加減、彼を施設に入れるべきだ」とアドバイスしたという。そうすれば早く終結するから、と暗示している。いつまでも至れり尽くせりのケアをしていては病人も終わりたくても終われない。彼の一番の学友たちがそう言っている。複雑な気持ち。だが、彼らはこれ以上の家族の負担を見かねているのだ。娘がためらうと、あと1年も生きたらどうするのか、と更に詰め寄ったそうだ。「あと1年?」家族にしてみれば、あと1年しか、という思いもある。ここまで面倒を見てくると、当たり前の日常になってしまっている。深みに入ってしまって、簡単には抜けられなくなっている。

 難関は息子。彼に至っては、父親が深刻な病人だとも思っていないふしが見られる。仕事から帰るとまず病人の上半身を抱き起こして、今日はどうだった、なんて聞いている。施設に追いやるなんて、とても言い出せない。しかし、娘は職場に復帰するなら、すぐにも決断が迫られている。タイには戻りたくないと言うが、よい給料をもらえる仕事はそこしかないのも現状なのだ。ヘルパーのへレンが暮れからオフイス仕事を探しているのに見つからない。家賃が払えないから、実家があるマンチェスターへ引き上げると言っている。

 2005年11月の発病以来、私にとって4回目の英国の春、つらつら眺めるに、人生は予測不可、一寸先、何が起きるかわからない。安寧の人生もあるところにはある。私たちは不幸一族なのか、いやそうではなかろう。ただ、予想外なハプニングをしょっただけね。

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