なんと言うことでしょう、暮れの31日夜中、静岡の会員、新川由利子さんが逝ってしまった。ご主人の恵三さんから、「昨夜11時32分に旅立ってしまいました」のメールが小さい字で、こそっと入っていた。本当なら全国のみなさんに新年のご挨拶を述べるところだが、この悲しみの報告をまずしなければ前へ進めない。享年48でしたか、早すぎた。

 前にも書きましたが、緊急入院した11月に一度、静岡日赤まで会いに行った。あれが最後になってしまった。会うのはこれが最後になる、という確かな予感が自分の内にあったのに、そんな素振りを見せないで帰ってきてしまった。いつも思うのだが、何故「さようなら、あなたに会えてよかった」をはっきり言えないで「またね」なんて白々しく繕うのだろうか。病人が希望を失くすまいと闘っているのに、永劫のお別れはやはり言えない。

 ご主人の恵三さんの心中を思うと、いても立ってもいられない。飛んで帰って、一緒に泣きたい気持ち。今までの看病の日々に彼が一人で流した涙、もう出尽くしたと思われるけど、美しい涙はまた湧いて出てくるもの。二人は夫と妻というより兄と妹のような、いつまでも所帯くさくない、仲良し友達のような夫婦だった。子供がいなかったからかもしれない。代わりに愛犬かい君が子供役。犬は賢いので、変化を敏感に悟って、瞑目しているに違いない。恵三さんは誰が見てもあれ以上はできない密な看病を続けてきたのだから、お願いだから、今、あれこれ回想して自分を責めたりしないでほしい。

 そうでなくても、由利さんと同じ命を生きていた恵三さん、本当に逝ってしまったら、力尽きて立ち上がることも出来ないのではないか。回りがみな、それを心配していたと思う。最後の一夜だけ彼は病院に泊まった。終わり近い日々は個室に誰も入れず、二人だけで究極の時間を過ごしたという。これも由利さんの決断だったと聞いて、あの細い体のどこからそんな強い意志が流れていたのだろうと驚いてしまった。

 あけぼの会のため、乳がん患者のために最後まで役に立ってくれた人だった。去年の6月に副会長の富樫さんと一緒にシカゴへ行けるよう配慮してあげたのが、せめてものお返しと、今なら言ってしまってもいいだろうか。私のスーツケースを喜んで借りてくれたのもお節介好きな私にはうれしかった。シカゴも初めて、通訳は付いたものの、アメリカの患者との座談会も初体験だった。彼女の人生にもう一つの重みが付いたことが、よかった。

 10月の大会には有楽町の朝日ホールに車椅子で参加して、600人の前で「来年は自分の足で歩いて参加します」としっかり宣言してくれたのに、それもかなわなくなった。彼女の死を知れば、全国の会員が心から哀悼することだろう。1月8日には静岡支部が新年会を予定している。その日まで元気になって行くからね、と話していたという。期せずして、偲ぶ会になるのだろう。私は丁度その日の午後、成田に着くので間に合わない。

 さようならをもう一度、新川さん、短かかったけど、恵三さんのあんなにも深い愛で包まれたあなたの一生は幸せだったとみんな羨ましく思っています。どうか今は安らかにお休みください。私たちはあなたのことを忘れません、ありがとう。

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