●思えば、私の英国人の夫も2005年11月にALSを発病、2012年2月まで6年間も生かされていた。その間の家族の負担は決して小さくはなかった。金銭的には英国の医療制度のおかげで助かったが、その分、国のお金をどれだけ使ったか、天文学的数字だと思う。まあ、死後に(お金が残っていれば)税金としてごっそり返金することになるのだが。
●ただ、安楽死(尊厳死・死の幇助)は生きる意味という観点から考えると、許容されるべきと思ったりする。Webber卿の言う通り、基本条件に更に細かい条件を加えての法制化なら良し、というか、法制化されるべしと思う。例えば、夫のように6年間の半分は、食べる、しゃべる、手足を動かすことなど運動神経系の全機能がストップ、意志の疎通はさまざまな手を使って、でき得る限り努力はしたが、途中であきらめてしまって、それもなくなってからも生かされていた。胃ろうと清潔なベッド環境と、緊急事態が起きれば救急車で病院へ運ばれて応急処置をしてもらったおかげだった。あんな日々にどんな意味があったか、死ねないから生かされている、そこに果たして意味があったのか。生きる、という文字から程遠かった。
●欧米人なら、すぐさま、「意味はない、だから自分がそんな状態になったら、安楽死を選ぶ」という。現に、イギリス人の友人たちは何度も「本人は生きていたいと思っていないだろう」とか、ドクターの友人は「彼の主治医がなんとでもできるはず」とまで言っていた。結果的には医療側と家族側が胃ろうからの栄養と水分補給を断ち切ることに合意して、結果、死に至った。生前、「無駄な延命治療はしないでほしい」との本人の「リビングウイル」が最終決断に正当性を与えた形になった。
●日本は本人がいくらそのような決意と要望を告げてあっても、いざという時に、周りがそうさせない国民的傾向がある。医師も、迷わず、本人より家族の嘆願を取り入れたりする。いつかのテレビで、千葉の家族だったか、ALSのお父さんが死を望んでいることに妻と子供二人が悩みに悩んだ末、家族全員がお父さんの希望を叶えてあげたいと医師に告げたところ、たやすく断られてしまった。医師の死の幇助は犯罪になるから、それを恐れてのことだった。本人の切望と家族の煩悶と決断は何だったのだろうか。これでは誰も救われない。
●私は自著「ワットさんのALS物語」(発行・ヴィゴラス・メド)にこう書いてある。「延命治療に意味があるのかと問われれば、意味はない、と私は答える。しかし、わが家がいい例で、乗りかかった船なのだ。どこで降りればわからなくなって、船に乗ったまま、簡単に降りられなくなっている。理論と現実は一致しない」
ことが起きる前に決めていたことが実際起きてみると決めた通りにはいかないと思うことがままある。生死がそれだ。生はいつなんどきも簡単には諦められない。周りもどんな状態でもいいから息をしていてほしい、と願う。息を人為的に断絶することなど想像もできない。
●Webber卿が推察するように今から20年後は死の幇助に対する概念が世界的に変わっているかもしれない。今ほどは迷わなくなるだろう。しかし、今はまだ誰もが迷う。迷うべきだと思う。私の言っていることも左右に揺れて、自分でも整理がつかなくなってしまった。 ワット Email:akebonok@d9.dion.ne.jp