AKEBONO NEWS No7に掲載された記事です

 

友人が33 歳で亡くなる
 2009 年3 月、私の友人が33 歳の若さで亡くなりました。その2年前に、乳がんと診断され、手術をしましたが、当時34 歳だった私は、乳がんという病気は他人事のように感じていて、ただ彼女
が「がん」という恐ろしい病気に侵されているという怖さだけを感じていました。手術後は少しずつ元気を取り戻し、一緒にバレーボール観戦をしたり、食事に行ったりすることができるようになり、私は「彼女は治ったんだ、本当に良かった」と簡単に思っていました。
 しかし、彼女から「転移が見つかった」と言われ、何て声をかければよいかわからないまま、どんどん体調が悪くなり、私たちと会うこともできなくなりました。

2 週間後に私が乳がん
 彼女の葬儀の後、彼女のお母さんは私たちにこう話しました。「若いからと言って、安心していちゃダメよ。検診に行きなさいね」。その言葉が引っかかって、お風呂で、胸を触ってみました。すると、気になるものを感じました。お葬式から1 週間後、受診。マンモグラフィーとエコー、細胞診。結果が1 週間後出ました。乳がんでした。

恐怖に心が押し潰された
 病名を告げられたあと、先生の言葉は、ほとんど頭に入って来ませんでした。2 週間前に亡くなった友人のことばかりが脳裏をよぎり、涙がこぼれ、私も彼女のように死んでしまうんだという思いに、心が押し潰されてしまいました。
 MRI やCT 検査を次々と受け、自分の中に「がん」があるという恐怖が嫌で、手術をとにかく早くしてほしいと主治医の先生にお願いしました。あとでこの先生は【あけぼの静岡】にいつも携わってくださっている中上和彦先生だと知りました。

大家族の精神的サポート
 検査の結果、腫瘍の大きさは2.1cm で転移なし、手術日がすぐに決まり(と言っても最短で1 か月半後の2009 年5 月13 日)不安と死への恐怖で、手術までは毎日のように泣いていて、それ以外ほとんど何も覚えていません。
 主人と二人暮らしだったので、とりあえず実家に帰ったらと、なるべく私が一人にならないようにと、主人と実家が相談してくれていたようでした。実家には、両親と姉夫婦、姉夫婦の子供2 人(当時小学生)、祖父の7 人が住んでいて、そこに私の主人が加わって、みんなで精神的サポートをしてくれ、この大家族のサポートは私の抗がん剤治療が終わる
までずっと続きました。

治療計画が立てられる
 手術当日のセンチネル検査の結果、マイナスだったので、右乳房全摘で手術は終了。
 術後の経過は順調で、1 週間で退院、その後は、抗がん剤の治療を4 クール、ホルモン療法のタスオミン錠を1 日1 錠、リュープリン注射を3 か月に1 回続ける治療計画が立てられました。

中上先生から【あけぼの会】のことを
 「がん」に対する不安がずっと消えないまま、精神的にまいってしまっていた私を心配した主治医の中上先生が「【あけぼの会】っていうのがあるんだ。同じ病気の人たちが話を聞いてくれる会だよ。連絡してみない?」とおっしゃって下さいました。
 がんの前は、おしゃれすることが大好きだったのに、乳房がなくなってしまったことで、おしゃれも、人に会うことも嫌になってしまっていました。そんな私に、主人や母や姉は「行って、話を聞いてもらっておいで」と言ってくれました。
 会場で、心配になりながら待っていると、二人の女性が声をかけてくれ、ずっと涙を流していた私の話を優しく聞いてくれ、【あけぼの会】には術後何十年も元気な人もたくさんいる、と教えてくれました。それを聞いて、それまでずっと下を向いていた私に、少しずつ前を向く勇気が出てきました。

小学生の甥っ子たちが背中をさすってくれる
 その後、抗がん剤治療の始まり。副作用がひどく、ひどい頭痛に見舞われ、嘔吐が1 週間近く続く日々、もちろん髪も抜け、眉毛やまつ毛も抜けてしまいました。
 私の布団をあえてリビングのみんながいるところに敷いてくれました。当時小学生だった甥っ子2 人は、いつも私の寝ているそばで遊んでいて、私が気持ち悪くなると、姉がすぐに来られないときは、代わってすぐに来て、ずっと背中をさすってくれました。そんな家族の献身的な支えで、キツかった治療も乗り越えることができました。

お洒落をまた楽しむ気持ちに
 そのころようやく【あけぼの静岡】の「あけぼのハウス」に参加することができるようになりました。ウィッグもショートとロングの安価なものを2 種類買って、美容師さんにウィッグを私に似合うようにカットしてもらったりして、また、以前のように、おしゃれを楽しむようになりました。

子どもが欲しくて不妊治療を何年も続けていた
 治療が落ち着いてくると、ふと考えることがありました。子供……どうしよう……。
 というのも、私たち夫婦は2000 年に結婚、すぐに子供が欲しかったのですが、なかなか恵まれず、乳がんがわかるまで不妊治療をずっとしていました。タイミング療法から始まり、人工授精、体外受精と何年も繰り返していく中で、排卵日前にはホルモン注射を1日おきにしていました。
 そんな生活が何年も続いていましたが、乳がんがわかった時、不妊治療は断念せざるを得ませんでした。周りの友人がどんどん子供を授かっていく中、私はその希望も絶たれ、乳がんとの闘いが始まったのでした。

二人でいい、二人で楽しく生きていこう
 治療が落ち着いたころ、月経も始まり、ようやく通常の生活に戻ったのが40 歳ごろでした。妊娠、出産、の文字が頭をよぎりましたが、また不妊治療を再開してホルモンを上昇させることは、とても不安でした。でも、子供が欲しい……。
 特別養子縁組を考えたりもしましたが、当時は「両親となる人の年齢」や「疾病等の治療中ではなく健康であること」などの条件があり、断念。真面目に子供を望んでいる人にとって、優しくない世の中だ、と思うこともありました。そんな時、主人が「これ以上、きみの体に負担をかけたくない。二人でいいよ、二人で楽しく生きていこう」と言ってくれました。
 不妊治療と乳がんの因果関係は私にはわかりませんが、私たちにとっては、不妊治療は女性の体に負担をかけることなんじゃないかと思うようになっていたのです。何度も話し合いを重ねて、私たち夫婦は二人で生きていこうと決めました。

中学生対象のバレーボール教室
 手術からもうすぐ15 年。主人がまだ現役で社会人バレーボールを続けていることもあり、私たち夫婦は中学生対象のバレーボール教室を始めて、2024 年3 月で丸9 年が経とうとしています。卒業していった生徒の数は100 近くになります。
 バレーボール教室を通して、子供たちの成長に携わらせてもらっています。中学、高校、大学、社会人になった卒業生たちが今も顔を出してくれます。自分たちの子供には恵まれなかった私たちですが、こうして多くの子供たちの成長に携われることがとてもありがたいことだと思っています。フルタイムで仕事をして、夜3 日の練習、土日の試合や練習試合と、毎日忙しい日々を送っていますが、日々充実しています。