日本から「更新を楽しみに待っています」とやんわり催促が届いている。いつもより更新度が低いので、間を置かないで書いたらどうなの、というわけ。私にしても書くことが唯一‘正気のバロメーター’なので、一回分書けば、暫し心穏やかになる。暇に任せて、よそ様のブログを覗くと、さらさらと立て板に水が流れるように書いてある。あんなふうに私も書けるはずなのにと思うのだが、つい構えてしまう。自意識過剰。最近のブログ洪水氾濫傾向を嘆いて、誰かが「平気で私生活を垂れ流している」とコメントしていた。

 私も「垂れ流し」しているのかなあ。響きが悪いのでこの言葉は好きではないが、「あんたもよくあそこまで書くわね」と言われたことがあるので、この部類に入るかもしれない。私は‘ありのまま主義’、どこまで書いて、どこからは書かない、の線引きが面倒くさい。とか何とか、言い訳が長くなっているが、今回は書かないのではなく書けないのです。筆が進まない。理由を考えてみた。私の心が虚ろ(うつろ)なせいだからと思う。心とは?目に見えない。こうして自問しているのがまさに心。その心が虚ろにさ迷っている。

 ならば、ここへ来る前、日本にいたとき、私の心は虚ろではなく充実していただろうか。口には出さなかったが、あけぼの会の仕事にも身が入らない、家に帰っても一人でボオーッとして冴えない日々だった。毎朝、事務所へ行く坂を下りながら、足だけ動いているが、心が付いていっていない。私はこの坂を下りてどこへ行こうとしているのだろう、人生の行き先が見えない。こんな確かさのない生活はなんとかしなければと思いつつ、いたずらに日を送っていた感がする。だからイギリス行きを早めたことに少し望みを掛けていた。

   

 所変われば、気分も変わるだろう。しかし、それは他力本願だった。心は体の奥深くにあって、4430マイル移動しても、石のようにじっと動かない。転地で左右されたりしないのだ。どこにいても逃げられない自分の心、これをどうにかしないと、私の人生の今の部分を切り抜けられないではないか。人はみな、こんなことで悩んだりしないのだろうか。町を行く人はみな目的に向かって早足で歩いているように見える。私もかつてはそうだったのに、今は早く歩いても行くところがない。時間だけがだらしなく過ぎていっている。

 久しぶりにミヨコさんの家にランチに行ってきた。地下鉄から英国鉄道に乗り換える行程を忘れて、後ろから来たやさしそうな男性に尋ねると、偶然彼も同じ汽車で行くので付いてきて、という。切符の買い方も忘れて彼に依存していたら、汽車が入ってくる音がした。どうぞ先に行って。彼は階段を2段跳びに跳んでいった。画面を出して、行き先を押せばいいのだ、その画面をどう出すのか、タッチすればいいだけだったのに、それがわからないのでじっと画面をにらんでいると、そこへあの男性がまた走って降りてきた。

 特急だったから乗らなかった、と言って、画面操作して、私の切符を買ってくれた。なんと親切な人、財布は盗まれてもこんな人がいるロンドンは許そう。降りる時、ありがとうを言って握手した。地獄で仏。しかも私好みのハンサムな仏だった。車窓からラベンダー畑も見えた。2005年7月、北の大地、富良野のラベンダー畑にいた。心は平和だった。

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