●全国のみなさん、心配かけています。富樫さん、今自宅で静かな時を過ごしています。1週間前、6月4日(土)朝11時過ぎに用意された担架付きのレンタカーに寝たまま、千葉のお家に帰った。前日に主治医と話をし、自分で、もう打つ手はないことを再確認して、それなら家に帰りたい、とlast wish を表明しての流れだった。最後まで自分の意思を貫いた。治療を諦めたのではなく、主治医と合意の上、潔くストップしただけなのだ。

●先週木曜日朝、病状が急変、ご主人が仕事先で連絡を受けた。正午前に事務所へその旨電話があり、鈴木さんと一緒に駆けつけた。「富樫さん、待っててね」気が急いて、地下鉄の築地駅の階段も飛んで上がり、そこからの聖路加病院への道が遠過ぎて、心臓が止まりそうだった。病人は苦しそうに、痛い痛い、と身を持て余して、ベッドの上で左へ右へ向きを変えたり、起き上がろうとしたり、お手洗いに行くと立ち上がろうとしたり。

●痛かったのは腫れたお腹で、鈴木さんはそっとなでたり、団扇で風を送ったりして、痛みが少しでも楽になるようしてあげた。私たちの息の合った介護班を見て、ナースは「とても安心、助かります」なんて、褒めてくれた。酸素チューブを鼻に、酸素値を測る管の先を足指につけて、尿の管と、点滴で生理食塩水と痛み止めの管が2本、ベッドの上は管だらけ、それを一つ一つ取り外そうとするので、手を押さえるのが大変だった。意識は混濁していて、私を野崎さんと呼んだり、今岡山にいると言ったり、魂が浮遊している。

●「苦しんでいるのを何とかしてあげて!」と私がいつもの命令調に言うのだが、ナースは「さっき強めたので、今に効いてくるはず・・・」とか、まだるっこい。点滴とパッチで軽減していて、どうしてもの時には座薬を入れるという。なぜこの機に及んでも、苦しまなければならないのか。そのとき、閃いた。完全疼痛緩和はホスピスにでもいれば別だけど、よくよく考えてみると痛みの完全除去は完全に眠らせないとできない。だから、病院での治療行為としては、とことんは出来ないのではないか。

●翌金曜日、午後に電話を入れると来てください、と言う。何でも「会長さんが来る」と耳に囁くと、パッと目を開いて、うれしそうな顔をするのだという。私もうれしいわ、富樫さん。今日も鈴木さんと一緒。ご家族に介護班が来たから、お昼でも食べてきて、と解放してあげる。と、その間に、病人がベッドの両脇の柵に掴まって起き上がった。吐きたい、という。盆をあてがって、すぐにナースコール、固形物を吐いた。3日前に食べたものらしい。消化されずに胃に残っていた。嘔吐は強い痛み止めの副作用だという。

●明日千葉へ帰ったら、もう会えない、今日が最後のお別れ。いざ帰るときになって、あとひと目会いたくて、また病室に戻った。そのときは周りが気を使って、私と二人きりにしてくれたので、富樫さん、ありがとうね、と言いながら、声を上げて泣いた。それまでは泣かなかったのに。彼女はわかったのかわからないのか、呼びかけると顔をしかめる。

いよいよの時が来た。手を握り足をさすって、涙を拭いて、部屋を出た。

●そして土曜日、お別れしたつもりがまた未練が湧いて、お見送りに一人で行った。車に乗って「私は今日はここまでよ」と言うと、瞑っていた目をパッと開けて「どうしてですか?」こんなときになってもびっくりさせる人、車に手を振って「さようなら」を言った。       

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