●昨日(月曜)、息子と私は朝10時ころというナース・リズの都合に合わせて、ホームに向かった。病人の息遣いが荒いのが気になる。このままでも自然に息が止まるのではないかと思ったくらい。英語の説明は「チェストがクリアでない」肺が濁っている。熱も前日39度まで上がり、それが38 、昨日は37度台まで下がっていた。

●隣の部屋が空いていたので、そこで、リズが話し始めた。「病人は見に見えて衰弱してきている、抗生物質も幾たびも与えて、これ以上は無意味。もし同意を得られれば、即刻、食事と水のサプライを止めたい」息子が代わりに答えた。「わかりました、そうしてください、ただ苦痛がないようにしてほしい」かくして、夫の命綱は2012年1月9日午前11時、完全に切られることになった。長かった闘いの終焉。思えば、2005年暮れから、丸6年、家族の心が固く結ばれた日々だった。子供たちの胸中はいかばかりか。

●合意の瞬間、悔恨や罪悪感はなく、安堵感のみが漂った。みなの肩の荷がやっと下りた。これでいいのだ。決まれば早い、リズの指示で二人の男性職員が胃ろうと尿管を抜き取って、体を拭いて着替えさせた(私は部屋の外にいた)。左肩の下のポート(でしたよね?)は付けたまま。管を外されて、病人も部屋もすっきり広くなった感じがする。お腹が膨満しているのが気になる息子が下剤をしてほしい口ぶりだったが、リズは様子を見ようと言っただけ。この段に来ても、まだ病人を少しでも楽にしてあげたいと彼は願っている。

●息子は一部始終を電話でバンコクの娘に報告した。娘はこの土曜日にまたこっちに戻るフライト予約をしている。もし、それまでに何か起きても、ダディとは、きちんと別れをしたから心配しないで、と言った。なんという潔さ。帰る前に二晩続けて、ホームに泊り込みだったので、二人だけの時間を十分取って、永遠の別れの会話をしたのだろう。父親にも十分伝わったことだろう。勿論、土曜日まで生きていれば再会できるので、それは何よりうれしいこと、肌のぬくもりが残っている内にもう一度会わせてやりたい。

●ここで私のことになる。風邪が長引いて、今でも咳、鼻、喉と悪寒。外出時にはタイツとズボンとロングスカートと三重に重ね着してもまだぶるぶる寒い。日本にいれば、すぐに抗生物質を出してもらって治すところ、こちらでは病院へも行けない、大体に熱がないので救急扱いもされない、売薬はあれこれ試して、咳止めシロップ液は一壜空にした。私の直感だが、これは一旦日本に帰らないと治らないのではないか。何故なら、原因はこの国の冬、この時節の憂鬱だと思う。終日、暗くて寒くてじめじめ、お日様が出てこない。

●朝9時でも暗くて、夕方3時半には真っ暗近くなる。今までもこの国の冬に対応してきたはずなのに、今年は立ち向かえない。東京はどんなに寒くても日光がある。風通しもいい。12日帰国切符を変更すべきか、リズは「どれだけ持つか予測できない、日にちの問題だと思うが、何日か何十日か、としか言ってくれない。私個人の飛行機の切符など今重要ではない。しかし、このままでは私の体が腐っていくのがわかる。だからと言って、今逃げ帰れば、敵前逃亡、不名誉である。一旦帰国しても、またすぐ飛んで戻る自信がない。私は主人公の妻、最期の時にここにいないのは許されない。ジレンマに責められている。

Mailto
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