●2012年1月12日夕方6時10分, 夫の命、遂に尽き果てました。日本からどんどんお悔やみメールが届いています。ありがとう、あなたのやさしいことばで私は大変癒されて救われています。こんなときに友情の真価が表れるものだとつくづく思いました。何から報告すべきか、気が抜けて脱力して、わからない、ただ、このロンドン便りも今回で遂に終わりが来たのが、まずさみしい。まだまだ、長々、だらだら、書き続けていたかった気がする。6年間のワット家の飛び飛び日誌の結末を今ここに書こう。

●月曜に水と食事を絶って、すぐに異変は起きなかったが、2日目くらいから呼吸が乱れ始め、ウーウーと喚くような息を6,7回すると、スッと無呼吸、これを繰り返すようになっていた。こんな呼吸では長くは持たないよ、と息子と話して、水曜の夜、親友のニックに連絡して来てもらった。彼は別れのスピーチを病人に向かってした。聞いていた息子は声を上げて泣いたそうだ。残念ながら、私はその場にいなかった。息子もその夜、父親と最後の別れを声を出して言葉でした。実に感動的だった。木曜はすっきりした顔でいた。

●12日木曜日、(本来なら私が帰国と決めていた日)午後から、息子と息子の同居人のアレちゃんと私は病室に詰めていた。彼女は虫の知らせか、その日午後から仕事を早退して、応援に駆けつけてくれていた。娘だけがいない、バンコクからようやく飛行機がこの国に向かって飛び立つ時間、あと12時間ほしい。間に合うか、合わないだろう。6時過ぎに呼吸が静かになったと思ったら、止まっていた。部屋には息子だけがいた。すべてを父親のために捧げた6年間の終結に、息子が一人そこにいたのが天の配剤でなくて何であろう。

●私はというと、気分が悪くなって、家に帰って一休みと、帰るや否や、ソファでバタンと寝込んでしまい、起きなければ起きなければと頭で考えても体が起きなくて、起きても、またすぐバタンと横になって寝て、ようやく6時に起き上がったのだった。あたかも息子の電話を待っていたかのようなタイミングだった。外は真っ暗、バスを乗って、ホームに向かう。部屋は暗くしてあり、ベッドの体はまだ生暖かい。夫の体に覆いすがって、おいおい泣くべきなのだが、無感情で涙が出てこない。疲れ果てて、感情が消滅してしまった。

●ヘルパーのオスカー(黒人の大男)が「ミセス・ワット」とだけ言って、慈愛をこめて私を抱きしめてくれ、息子には「あなた方の親身な介護には感動した。私たち職員一同それに対して敬意を抱いている」と言って、抱きしめてくれると、息子は向こうを向いて涙を拭いていた。「男はいいね、こんなとき」私は感心して眺めていた。オスカーと息子は二人で夫に服を着せて、その後は遺体引取り人が来てくれるのを待っていた。真っ黒な棺を持って二人の男が到着、すんなりと運び去って、一巻の終わり、時計は10時を廻っていた。

●家に帰って話題は、娘がヒースローに着いて、その足でホームに向かって、殻のベッドを見たらどうしよう、という恐れで持ちきり、到着時間が早朝なので、空港から家に電話をしないかもしれない。何でもできる時代だが、空中の人と電話で話すことはまだできない。しかし、結果は、翌朝、娘が電話を入れたので、ホームではなく家に来るようにできたことだった。娘は眼鏡を外して涙を拭いていた。そして、深い大きなため息を漏らした。

Mailto
akebonok@d9.dion.ne.jp