帰国すれば、また忙しくなるので、とにかく2011年新春の抱負を述べなければ、と半分書き始めたら、またまた悲しい知らせが舞い込んできて、抱負など書けなくなった。今度は会員の白幡都子さんが亡くなったという。信じられない。こんなにあっけなく人一人の命が消えていくなんて。彼女とは1年に満たない知り合いだったが、〈あけぼのハウス〉の常連で、いつも超派手に着飾っていて、爪にはすごい色のマニキュアを、靴はハイヒール、最後に見たのは真っ白のミンクコートを羽織った、スクリーンから抜け出た貴婦人だった。

 ひときわ目立つお洒落に誰もが最初は驚くが、話してみるととてもインテリで極く普通の人とわかって、逆にとても親しく感じるようになった。暮れの11日に遠藤郁子さんのピアノを聴きに上野の奏楽堂へも一緒に来てくれた。それなのに、年明けの2日にどうして死ぬのか。3週間前に立って歩いて電車に乗っていた人なのに。ただ、もう食べられないと言っていた。それがどれほど深刻なことか、気付かなかった私は無神経だった。

 自分では感づいていたはずなのに、愚痴や苦しみは少しも人に言わず見せずの人だった。ああ、どうしよう、別れの言葉もかけてあげられなかった。帰国すればまた会えると思って、軽く別れてしまった。大いに悔いている。でも他の会員が24日に電話で話した時「あけぼの会に入っていてよかった」と一言言ってくれたそうだ。だって、あれは11月のこと、私が月一回の割で任されているラジオ日経の番組に彼女はあと一人の会員、前田さんと二人で来てくれて、堂々と自分の思いと他の患者に対するアドバイスを述べてくれた。

 二人とも再発闘病中、「再発したりすれば、一人になったとき、ずいぶん孤独を感じるんでしょうねえ」と私は思い切った質問をしたりした。ラジオ日経の番組はパソコンで聴けるので、みなさんにじかに聞いてほしい。白幡さんの透き通るような声が耳の底に残っている。2011年は悲嘆の中で始まった。実は、アメリカ在住会員の浅海さんも昨年亡くなった。アメリカ人のご主人からメールが入ったが、「Sad news」と前置きして、彼女は日本に帰りたがっていた、と書いてあった。秋の大会に来たい来たいと毎年言っていたのにね。

 今、1月7日正午過ぎ、今日の3時半に迎えのミニキャブが来て、ヒースローへ向かい、私は日本へ発つ。落ち着かなくて、名文が浮かばない。とにかく重い悲しみが待ち構えている日本へ私は帰る。9,10日と休日なので、静岡の新川さんに会いに行ってこよう。写真を見ても泣かないようにしなければ。弔電に「帰ったら会いに行くから、待っていてね」と書こうとしたが、いや待てよ、待っていて、なんてと言うと、仏様が成仏できないと困るとか言うではないの。それで急遽、「待っていてね」を外したのだった。

 私は立場上、会員一人一人の死を嘆いて、いつまでも悲しみの中に浸っているわけにはいかないことを知っている。今まさに再発治療中の人、手術後日が浅く、心細くてどうしていいかわからない人、いろんな会員が全国にいて、あけぼの会を頼りにしてくれている。3000人余の会員の期待を背負って立っている会長さん、さあ、今、立つのだ。

 昨日日本から帰った息子と今ホームへ病人との暫しの別れに行ってきた。今度はいつ戻るか、わからない。ミニキャブの時間が迫ってきた。立って歩くしかない。動くしかない。

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