3日前の夜、導尿管トラブルでオシッコが出なくなり、また病院へ運ばれた。これで4度目ではかなろうか。緊急と言っても危急ではないため、救急車が来るのに3時間もかかった。娘が夜中になってもホームから帰ってこないので、ケータイに連絡入れて事態が判明。私は寝てしまったのだが、娘が帰ってきたか気になって何回も目を覚ました。結局帰ったのは翌朝の9時、病院で処置は簡単に終わったのだが、ホームへ連れ帰る許可を得るのにまたずいぶん待たされたらしい。病院の硬い椅子で長時間ただ待っていた病人とその娘。
家に帰ると物も食べないで、すぐにベッドに入った。寝息を立てて寝ている。よほど疲れたのだろう。かわいそうになった。その朝は私が代わりに孫を学校へ連れて行った。徒歩で20分くらいの道を孫と歩くのも、たまには楽しい。私もその日は頭が重くて、娘につられて寝て、なんと夕方の7時40分までぶっ通しで寝た。可能とは思えないが、実際に寝た。それまで時差で十分寝ていなかったからだろう。相変わらず時差はしつこくて、10日過ぎた今でも夜明けの2時過ぎに目が覚める。そこから導眠剤を飲んでまた5時間位寝る。
その娘にバンコックの元の職場から9月1日から復帰を認めるというお達しが届いた。長期休暇を取って以来、実に4年半になる。今戻るか、完全に職を失うかの二択。返事は翌日の一日だけだった。迷ったが結局イエスの返事を送った。バンコックという土地がもう好きではなく、可能なら、ヨーロッパ内の国連関係で働きたいと願っていたのだが、うまく行かなかった。元の職場はお給料がよいほうなので、孫と二人の生活と孫の学費も自分の働きで賄える。インド人の夫は学者で頭はいいが、稼ぎが乏しくて当てにできない。
ダディに会えなくなるとさみしいね、と言っただけで、もう眼鏡を外して泣いている。4年半もべったり付き添ってきたから、別れはどんなにか悲しいだろう。「これからはあんたとリラの未来だけを考えなければね」と言い添える。バンコックもイギリスからは遠い。それに一旦働き始めれば休暇もおいそれとは取れない。復帰の許可が届いて以来、喜ぶべきなのに心中は複雑で、誰も口に出して何も言わない。息子は一人で任せられることになるので余りいい顔をしない。しかし「もう十分やったからね」と一応、理解は示している。
ここで登場するのが、あのフイリッピン娘のリリオ。今までは昼間の1時間(時間給約1000円)、ストレッチ他もろもろをしていたのだが、8月から夜の出勤も頼み込んだ。9月からは本格的に娘のいない分をカバーしてもらいたい。まとめて月給を払う条件でOKを取った。別の顧客をキャンセルして、こっちに来てくれる。まじめで、明るくて、頼りになる。何より病人が好いている。彼女が来ると目を開け、いい顔をして安心しているのがわかる。こんな重宝なヘルパーに恵まれて、私たちはラッキー、神がくれたプレゼント。
かくしてワットファミリーの氷河期が終わろうとしている。一番頼りになる娘がいなくなれば、あとどうなるか、大いに不安だが、ここで誰かが氷を破って外に出なければ同じ日々がまた繰り返されるだけ。生き残る人は未来を見つめて生きることだ。そんな当たり前のことを忘れかけて、病人の死ぬのだけを待つ4年半だった。考えるとぞっとする。